第百九十五話 ミーア姫、心を揺らしてしまう!
「馬に身を委ねる、か……」
異国の姫の口から出た言葉、その響きは剛馬の心に、奇妙な郷愁を湧きあがらせた。
はたして、その言葉を聞いて心が揺れない騎馬王国の者がいるだろうか。
……いや、いない!
なにしろそれは幼き日に、馬に乗り始めたばかりの子が、最初に言われる言葉だったからだ。
剛馬も周りの随伴の者たちも例外ではない。
そんな基本中の基本の言葉を、ミーアは、心から信じ切った顔で堂々と言った。
「だって、少なくとも走ることについてはわたくしより、この東風のほうが詳しいはずですもの。どうすれば勝てるのかということも、きっとこの子のほうが知っているに違いありませんわ」
とても賢そうな顔で、そんなことまで言うミーアである。
「なるほどな。族長会議からこの馬合わせという状況を作りだした姫殿下であれば、その発言にも重みが出るというもの。そうか、ミーア姫殿下は、我らに負けず劣らず、馬を信頼しているのですな」
その、子どものような純粋さは、彼女の着るビギナー用の服にも通ずるものがあるような気がした。
なるほど、その服は、馬に乗り始めた頃に誰かから渡されたものなのだろう。ミーアはその時の気持ちを忘れないよう、この大事な勝負にそれを着てきたのだ……と、納得しそうになった瞬間……不意に違和感を覚える。
それはそう、ちょっとした疑問だった。
馬にすべてを任せているというのなら……、なぜ、今、加速の指示を出したのか?
あれは、まぎれもなくミーア自身の意思によるもの。そして、同時にあれはタイミングとしても極めて正しいものだった。今から加速すればほどなくして、小驪たちを視界に収めることができるはず。いかに落露が良い馬でもあのまま走り続けることなどできはしないのだから。
――そうだ。考えればすぐにわかることだ。ミーア姫が、山族の乗り手に先行を許したのは、馬の意思はもちろんだが、ミーア姫自身の思惑もあったということなのだ……。では、その思惑は……。
剛馬は、思わずうなる。
おそらくミーアは、馬合わせのコースを地図で確認していただろう。いや、確実に確認しているはずだ。が、実際に走ってみるのは初めてだろう。となれば、あえて相手に先に行かせて様子を見るという判断をしたとしても、決して不思議ではなく……。
――いや、むしろ、この知者であるならば、きっとそうするに違いない。だからこそ、先行は許しても、できるだけ見える範囲内には収めておきたかったのだ。見失っては、様子見にならないしな。
剛馬は、そう結論付ける。
つまりミーアは序盤、相手の挑発を受け流しつつ、まんまと自分の計画通りに事を運んできたのだ。
――なるほど。族長会議を導いたミーア姫だ。そのぐらいのことを考えていてもおかしくはないか……。
しかし、そうなってくると、どうしても気になることが、剛馬にはあった。そして、それを聞かずにいられる剛馬ではなかった。
「ところで、ミーア姫殿下、その格好はなにか意味があるのですかな?」
そう、ミーアの着込んだ初心者の服がどうにも気になった。それははたして、初志を忘れないようにという、精神的な理由だけなのだろうか。
「ああ、これは……。ふふ、わたくしの大切な忠臣が着ていくように、と用意してくれたものなんですの」
ミーアは笑みを浮かべて言った。
「馬合わせに出るには、ぜひこの服でと。まぁ、東風、この馬も軍馬ですし、この程度の重さならば問題ないということでしたわ」
「なるほど……? ふむ……」
剛馬は、難しい顔をして考え込んだ。
さて、このお姫さまの言葉は、素直に信じてよいものか……。
先ほどの例に倣えば、これも、忠臣が用意してくれたものであるのと同時に、ミーア自身の思惑も絡んでいるはずで……。では、それはいったいなんなのか?
見れば、ミーアは、何の邪気も感じられない顔で、きょとんと首を傾げていた。
見るからに、なーんにも考えていなさそうなその顔の裏で、はたしてどのような思考を進めているものか……。
ミーアの底なし沼にすっかりはまり込んでしまった剛馬だった。
さて、一方のミーアは、暇つぶしに世間話をしつつも、やるべきことはきちんとやっていた。
それは、速度が上がり、上下動が激しくなった東風の動きに合わせること……。膝を柔軟に使い、ひたすらに東風のリズムに合わせる。
荒嵐とは違い、とても素直な足の運び方だった。それに合わせることなど、ダンスの達人たるミーアにとっては容易なこと。ただひたすらに東風の奏でる綺麗な四拍子に、その身を委ねていく。
東風が気持ちよく走れるように、上手にバランスをとる。このあたりの気遣いは、ダンスパートナーへの気遣いに通ずるものがあったが……、異国の姫の意外な乗馬上手に、随伴の騎手たちは一様に驚きを見せていた。
しばらくの運動の後、体がじわじわと温まってきて、だからこそ草原を吹き抜ける爽やかな風が心地よかった。
今年の夏は、あまり暑くならなかったから、風は少し涼しいぐらいだ。穏やかな風からは草原の、豊かな緑の匂いが感じられて、実になんとも爽快な気分になる。
「ああ……。やはり、馬はいいですわ。うふふ」
こんなに気持ちよく運動できるのであれば、もっと積極的に乗っておけば良かった、などとついつい思ってしまう。
「さぁ、行きますわよ! 東風!」
などと気合の雄たけびを上げたところで――見えた!
深い緑の絨毯の先、ポツリと浮かび上がるいくつかの影。
目を凝らせば、それが先行した小驪たちだとわかって……。
「ふふふ、追いつきましたわよ、小驪さん。逃がしませんわ」
そうして、ミーアは目覚めてしまう! 先に行った者たちに追いつく、快感というものを。
「後ろから追いかけられるのはハラハラしてしまいますけれど、こうして、後ろから追い立てるのは、割と楽しいかもしれませんわ」
などと、ぶつぶつ独り言をこぼしつつ、ミーアは小驪たちを追いかけるのだった。