第百九十四話 駄馬と賢姫⇔賢馬と駄姫
開始の合図と同時、飛び出したのは落露だった。
勇ましい嘶きが響くのと同時に、大地を蹴って走り出す。
一歩、その身が動き出し、二歩でその身は風となる。
紛れもない駿馬の走り。
月兎馬の中の月兎馬という評に恥じぬ、圧倒的なスタートダッシュだった。
人々の口からこぼれる歓声を気持ちよく聞きながら、小驪は、上機嫌に対戦相手であるミーアのほうを見ようとして……愕然とする!
「ミーア姫が、いない……ですの?」
よくよく見れば、ミーアたちは遥か後方、スタート地点からあまり離れていない位置をのんびり走っていた。まるでピクニックにでも行くかのような、軽やかな走りでのんびーりと……。
それを見た小驪は――小さく舌打ちする!
「くっ、なかなかやる……。これは侮れない、ですの」
悔しそうにうめきながら、視線を前方に転じた。
小驪が馬上で舌打ちしている頃、その父、富馬もまた悔しげに顔を歪めていた。
実にゆったりとスタートを切ったミーアと、その馬とを見送る。
「おのれ……。こちらの挑発に乗ってこないとは……なんと生意気な……」
皇女ミーアの堂々たる走りは、富馬と小驪の作戦が失敗したことを物語っていた。
そう……勝負はすでに、走り出す前から始まっていた。小驪は、わざとミーアを煽り、挑発していたのだ!
歴代の馬合わせに参加したことがある者は知っている。馬合わせで重要なことは、最初に速度を上げすぎないことであると。
二日にも及ぶ長距離レースにおいて、スタート付近で付いた差というのは、ほとんど気にする必要のないものである。ずっと馬を全力疾走させ続けられるわけもなく、どこかではスピードを落とさざるを得ない以上、開始直後に飛び出すのは、ただの見栄といっても過言ではない。
加えて馬合わせは、最後の最後に最大の難関が待っている。
それはゴール地点、星草の岩までの、だらだら続く上り坂だった。
基本的に平坦な草原地帯において、唯一と言ってもよい高い丘、そのてっぺんこそが、馬合わせのゴールなのだ。
つまり馬合わせは、最後の最後まで馬の体力を残しておくのが肝要。はじめのうちは、むしろ抑え気味に入ったほうが良いのだ。
にもかかわらず、小驪は飛び出した。
それは、乗馬に不慣れであろうミーアを自滅へと誘うための作戦だった。小驪の後を追いかけさせ、序盤で馬の体力をすべて削り取ろうという作戦だったのだ。また、最初から圧倒的な馬の差を見せつけて、相手のやる気をへし折ってしまおうという魂胆もあったのだが……。
「まさか、乗ってこないとは……」
普通であれば、対戦相手が先に行ったら追いかけたくなるもの。開始直後のスピード勝負を受けて立ちたくなるものである。あれだけ挑発されればなおのことだ。
にもかかわらず、ミーアはそれを無視した。
相手がどんどん先に進んでいっても気にせず、むしろ、あえてゆったりとしたペースでのスタートを決めていた。
「なるほど。口ばかりではないということか。あの落ち着きは見事……。帝国の叡智などと呼ばれているようだが、確かに賢姫には違いないらしいな。だが、いかに乗り手が優れていようとも、あの駄馬ではな……」
馬合わせは、当然、馬の力に左右されるもの。
「落露に匹敵する馬を連れてくれば……。それこそあの火の一族の馬を連れてくれば結果はまた違ったかもしれんが……ふん、馬に貴賤はないなどという綺麗事もろとも、踏み潰してくれる」
吐き捨てるように言って、去り行くミーアの姿を睨みつけるのだった。
さて……、そのように理想的なスタートを切った賢き姫こと、ミーア・ルーナ・ティアムーンであるのだが……あえて指摘するまでもなく、そこまでのことを考えてもいなかった。当たり前のことなのだが……。
ミーアはいつも通り、馬にその身を委ねるのみ。だから、むしろ、このゆったりとしたスタートを決めたのは、駄馬こと東風のほうだった。
そう、軍馬である東風は知っている。
この先になにがあるのかわからない以上、無駄に体力を使うことは避けるべきであること。堅実な体力温存策をとったのは、ほかならぬ東風自身だったのだ。
とまぁ、そんなわけで、現状は、賢馬の背に乗る駄姫状態なミーアなのだが、もちろん、それに気付く者はいなかった。
――ふぅむ、予想通りのゆったりとした走りですわね。荒嵐だったらこうはいきませんわ。まぁ、わたくしは楽でいいのですけど……。
ぱっかぽっこと揺られていたミーアは、ふと思った。
――しかし、あまり楽をしては、運動としていまいちかもしれませんわ。ここは、あえて、少しハードな運動をする必要があるのではないかしら?
思い立ったらすぐ行動。
ミーアは、東風の背を軽くポンポンっと叩いた。
「東風、少し速度を上げますわよ」
東風は耳をピクリ、と動かすと、わずかばかりの沈黙の後、走る速度を上げた。
「おっ、そろそろ追いかけるか。さすがに良い勘をしておられる」
突然の声。ふと見れば、ミーアの隣に並ぶようにして、一頭の馬が近づいてきた。それに乗っていたのは、族長会議でミーアに声をかけてきた、大柄な族長だった。
「あなたは……」
「ははは。お初に、ではないが、改めて名乗らせてもらうとするか。我が名は木族の族長、木 剛馬。木族の族長を張らせてもらっている」
「これは、ご丁寧に。ミーア・ルーナ・ティアムーンですわ。族長自らが随伴してくださるとは、心強いですわ」
笑みを浮かべるミーアに、剛馬は感心した様子で頷いた。
「しかし、それにしてもよく小驪の挑発に乗らなかったものですな。馬合わせの鉄則をよく心得ていると見える。いや、見事見事」
上機嫌に笑う剛馬にミーアは静かに首を振ってみせた。
「いえ。わたくしは、ただ、この馬の思うがままに身を任せているだけのことですわ」
自分ならば当然だ、などとドヤッたりはしないミーアである。
なにしろ、相手は騎馬王国の族長。いわば専門家である。下手なことを言っては簡単に見透かされてしまうだろう。
しかも、少なからず自分に好意的な反応を示してくれている人である。ここで下手に実力者のふりをしてボロを出しては、せっかく味方になってくれるかもしれない人の機嫌を損ねることになるだろう。
ここは謙虚に、正直に……。
――そう、この東風のように、わたくしは生きたい。
そんなことを思うミーアであった。