第百九十二話 小さな背信、アンヌの想い
馬合わせは五日後に行われる予定だった。
決定がなされた後、各族長たちは急ぎ、自分たちの部族に早馬を走らせ、部族一番の乗り手と馬とをコース上に配置するのだという。
その間、ミーアもまた準備に明け暮れていた。
なにしろ、馬に乗る時間は二日間とはいえ、一応の長旅だ。準備はしっかりとしなければならない。
随伴する騎馬はいるものの、彼らの手は借りることはできない。基本的には馬に乗っている間は自分のことは自分でする。トラブルでも起きない限り、助けてはもらえないのだ。
それはミーアとしても望むところで、むしろ……。
――なにかあった時の予行演習になるかもしれませんわね。みなに止められて、長距離の乗馬はやったことありませんでしたし、ちょうどいいですわ。
もしも、なにかのうっかりミスで、革命が起きてしまった場合、一人でも馬に乗って逃げられるように、きちんと事前訓練を積んでおきたいと思っていたのだ。
「南都から、星草の岩までのコースなのですが、ここの水場を中継地としていくことになります」
などと、地図を広げるのは林族の馬優だった。かつて、随伴の騎手になったこともある馬優は、馬合わせに詳しいらしい。
地図によれば、馬合わせのコースは、南都をスタートして、一路、西へ。中継地点の水場を経由して、今度は東へ。そうして、スタート地点の南都から北へ少し進んだ場所がゴールとなっている。
「今回のコースは水場も何か所かあるため、それほど過酷なものにはならないでしょう」
「なるほど。それでは、このいくつかある水場のどれかを野営地とするのがよろしいですわね」
「そうですね。確認されていない小川などもあるかもしれませんが……」
「わざわざ水場の場所がわかっているのならば、それをする意味はない、と……ふむ」
頷きつつも、ミーアは考える。
――なるほど、馬もわたくしたち同様、生き物ですし。食べることも飲むことも必要なのは道理。ということは、乗って逃げようとする際には、どこで水や食べ物が補給できるかを考えておく必要がありますわね。まぁ、草原であれば草は食べ放題なのかもしれませんけれど……。逆にある程度、馬の食糧なんかを持っていけば、重量的に馬の足は遅くなりそうですけれど、代わりに過酷な土地にも行くことができるということかしら。そのほうが追ってきづらいという可能性もありますわね……。いくつか逃走ルートにも変化がつけられそうですわ。
などと、ますます分厚くなるミーアの逃亡計画である。それが使われる日が実際に来るかどうかは、未知数だが……。
「しかし、やはり、実際にやってみないとわからないことというのはありますわね。これだけでも、良い経験ですわ」
とまぁ、そんな感じで自身を奮い立たせてみるものの……不安は拭い去ることもできず、
――やはり、なにかしら勝利する術が必要でしょうね。しかし、ぐぬぬ……。
そんなことをごちゃごちゃ考えるミーアであった。
そんな折、筆頭の問題が起きた。それは、馬に乗るための騎乗服の試着をしている時のことだった。
「アンヌ、さすがに、これは……どうかしら?」
ミーアは自らの服を見下ろしてから、小さく首を傾げつつ、後ろに立つアンヌに問う。
「よくお似合いですよ、ミーアさま」
ニッコリ笑みを浮かべるアンヌ。自らの忠臣の言葉を疑ったことのないミーアであるが、今の言葉にはさすがに疑念を抱かざるを得なかった。
なぜなら、今のミーアは……なんというか、こう…………モコモコしていた。
別に食べ過ぎたわけではない! それは大きな誤解である。
そうではなくて、その身にまとう服が、モコモコと分厚いものだったのだ。
それは、騎馬王国で使われる服だった。表面に羊の毛をふんだんに用いたそれは、毛の油分によって水をはじく雨具にも、防寒具にもなるという優れものだった……のだが。
「朝夕は確かに肌寒いですけれど、さすがに、これは少し暑いのではないかしら? それに、あまり重たいと東風も大変……」
「いえ、ゴルカさんに聞いてきました。軍馬なので、普段の重たい鎧に比べればなんともないということでした」
素早くこたえるアンヌである。
なるほど、東風は軍馬である。普段は、ミーアよりも重い(はずの)近衛兵を乗せているのだ。ミーアが着て動ける程度の厚着なのだし、この程度ではビクともしないであろうことは、わかっているのだが……。
「でも……」
勝利を狙うのであれば、やはり、できるだけ軽いほうが有利なのではないか?
疑問を抱くミーアに、アンヌは、悩ましげな顔をしてから……。
「それに……、そう……。汗をかいて運動すると痩せるという話を聞いたことがありまして……」
「まぁ! それは本当ですの?」
ミーア……あっさりと食いつく! 対して、アンヌは少しだけ気まずそうに目を逸らした。
「そのような話を聞いたことがある気がします。その、噂ですが……」
「なるほど。噂……」
ミーアは静かに腕組みする。信憑性のほどは定かではないが……しかし、検討の余地はありそうな噂である。
「ふむ……。確かに、干して水分を抜いたキノコのほうがシュッとしている感じもしますし……」
さらに、もともと、馬合わせはゴール後にシュッとするという噂もある。そこに、厚着をして、汗をかくという噂を重ねればどうなるか……。
ますますアベルの姉、ヴァレンティナに会う準備に万全を期することができるのではないか?
――そうですわ。確かに、馬合わせに勝てればより良いのでしょうけれど、目的を見失ってはいけませんわ。キノコとウサギを追っては、結局、どちらも手に入らずに、空鍋を炊くことになる、と言いますし……。
すべきことを一つに絞るべきではないか?
優先順位をはっきりするべきではないか?
つまるところ、アンヌが言いたいのは、そういうことなのだろう。つまり、このモコモコ服は、そのためのコーディネートなのだ。
「アンヌ……」
ミーアは、忠臣の諫言に耳を傾ける度量を持った人である。だから、自らの目を覚ましてくれた忠臣に、優しい笑みを浮かべて、
「わかりましたわ。アンヌ、あなたのお心遣い、しかと受け止めますわ」
アンヌのおかげで、達成すべき目標の優先順位が定まった。勝利条件を確定させることができたのだ。
ゆえに、ミーアは確信を持って言った。
「これで勝てますわ」
「ミーアさま……」
答えるアンヌの声は、かすかに震えていた。
アンヌには恐怖があった。それは、騎馬王国にやってくる途中でのこと。
火の一族との接触の時のことだった。
ラフィーナと一緒に馬に乗っていたミーアが落馬したと聞いた時、もしもミーアがいなくなってしまったら、と考えた時……アンヌの心は震えた。
そんなアンヌだったから、今回の馬合わせにも、本当は反対だった。
ミーアが危険な目に遭うのを極力避けたいと思う。けれど、ミーアが必要だと判断した以上、それに反対することはできない。ならば、自分にできることはなにか?
そうして考えた末の答えが、この、モコモコスーツだった。
雨具であり、防寒具でもあるこの服には、もう一つ、有用な使い方があった。
それは、馬から落ちた時、衝撃を和らげ怪我を防ぐ、騎馬王国の子どもが馬に乗り始めた時に身に着ける定番の服だった。
ミーアが万に一つの事態に襲われても大丈夫なように、と馬龍に相談した結果、手に入れた服である。
もちろん、アンヌは気付いていた。その厚着が、決して、勝負を有利にするものではない、と。軽いほうが馬は速く走れる。当たり前の話である。
にもかかわらず、アンヌは自らのわがままを通した。それは、ミーアの身を案じてのことではあったのだが……それでも、勝利を目指すミーアにとっては背信行為に他ならない。
罰せられても仕方のないこと、退けられても当然の進言。
……されど、ミーアはそれを笑って受け入れてくれた。
そればかりか、そのうえで、
「これで勝てますわ」
アンヌの勝手な想いをすべて飲み込み、そのうえで、アンヌの不安を拭い去るように、勝利を宣言してくれたのだ。
「ミーアさま……」
唇を噛みしめるアンヌに、ミーアは自信に溢れる笑みを見せるのだった。