第百八十話 帝国の叡智の問いかけ
深いため息が室内に響いた。
そこは林族の族長のために用意された部屋。
いささか落ち着かぬ異国の絨毯の上、どっかりと腰を下ろした父に、馬龍は、先ほどの出来事を報告していた。
「なるほど、やはり、光馬老は、火の一族の復帰に反対か……」
心なしか疲れた顔をする父、馬優。馬龍自身も、自らの不甲斐なさに歯噛みする。
「してやられたぜ。こっちの策略を完全に逆手に取られたんだからな……」
南都入城。彼らは二つの狙いをもって、その場面を画期的なものにしようとしていた。
一つは、火の一族が戻ってきてもおかしくないような……特別なことが起こりそうな、そんな雰囲気を作り出すこと。
そして、もう一つは、ミーアの発言権を得ることである。
聖女ラフィーナとは違い、ミーアは、ただの外国の姫である。帝国がいかに大国であるとはいえ、族長会議で発言権を与える理由にはならない。
されど、ミーアの叡智の助力を得られないのは、あまりにも痛い。そのため、他の族長からもミーアが一目置かれるよう一計を案じたわけだが……。
「乗馬しての入城。それにより、彼女が普通の姫ではないとわからせたかったのだが……、裏目だったか」
風 光馬は馬優の目論見を読み、そのうえで、それを潰しに来た。
「程度の低い馬に乗る者の言葉になど聞くべき点はない」
おそらく、もしも、族長会議にミーアが介入したら彼は主張するだろう。
だからこそ、当初の計画では南都に入る前に、別の馬に乗り換えてもらい、それで入城しようとしていたのだが……。
「富馬殿があんなところで介入してこなければ、こんなことにはならなかったってのに……」
「タイミングが悪かった。いや、くせ者の光馬老のことだ。わざとその場面で姿を現したのか……」
富馬とのやり取りがなければ、あるいは、ミーアに乗り換えさせることも可能だったかもしれない。林族が誇る月兎馬に乗ってもらい、それで入城することができたはずなのだ。そうなっていれば、胸を張って族長会議にも参加して、発言してもらえたのだが……。
けれど……、それはかなわなかった。なぜなら、ミーアが富馬の口を封じたあの言葉は紛れもなく正論だったからだ。
馬は馬。馬に貴賤なく、すべての馬に敬意を払うべき。
馬龍は、あれを聞いた時、衝撃を受けてしまった。それは騎馬王国の民が忘れてはならない大切な真理だったからだ。
だからこそ、ミーアが自らの馬に乗って入城することを止められなかった。ミーアを月兎馬に乗せることは、馬に貴賎なしと言った、彼女の言葉を否定することになるからだ。
「しかし、帝国の叡智は意外と純粋だな……。帝国の知恵者というからには、もっと清濁併せ飲むような人物かと思ったが……。いや、あの年頃の娘であれば、それも無理からぬことか」
父は、悔しそうにつぶやいてから首を振った。それを見て、馬龍は、胸の中に引っ掛かりを覚える。
「いかんな、どうも……。張り切りすぎて策を弄しすぎたらしい。我ながら……気持ちが逸っているようだな」
「ミーア嬢ちゃんが純粋だってのは俺も同意するけど……。でもな、親父殿、俺は嬢ちゃんほど、馬のことを知っている人間は会ったことがないと思ってるぜ」
馬龍は今でも思い出すことがあった。ミーアが言った馬の真理。それは、ミーアが厩舎に現れた時のことだ。
てっきり、くしゃみを吹っ掛けられた文句を言いに来たと思っていたのに……。ミーアは言ったのだ。
馬はどこまでも、遠くへ連れて行ってくれるもの、と……。
確信に満ちた声で……それを信じきり、なんの疑いも抱いていない顔で……言ったのだ。
「なぁ、親父殿、俺は思うんだ……。あの嬢ちゃんの言葉をさ、どんな理由であれ否定しちまったら、俺たちは、騎馬王国を名乗っていられないんじゃないか?」
この上なく正しいミーアの言葉、それを否定してまで通さなければならない価値とはなにか? どの馬が優れていて、どの馬が優れていないなどと評すること……、それ自体が高慢ではないのか……?
「馬に貴賎なし……」
突きつけられた言葉は鋭く……、向き合った者は悩まずにはいられない。
馬の価値を勝手に測る自分自身は、何者であるのか、と……。
「そうだ……、と胸を張って言えない自分がもどかしいな」
答える父の顔も、どこか苦み走ったものだった。その顔に浮かぶのは、罪悪感と自嘲が混ざり合った複雑な表情だった……。整理のつけようのない感情を無理やり笑みに変え、馬優は肩をすくめた。
「族長というのも、因果なものだ……」
どこか疲れた様子の父を見て、馬龍は苦い顔をする。
自らを幾重にも縛り付けるしがらみを感じて、暗澹たる気持ちになる馬龍であった。馬に乗っている時は、あんなに自由なのに……。その手を、足を、見えない鎖が縛り付けてきて、気持ちが悪かった。
気を取り直すように首を振り、父、馬優が言った。
「それで、ミーア姫は、どうしているんだ?」
「光馬殿に誘われて夕食を食いに行ってるよ。ラフィーナ嬢ちゃんも一緒のはずだ」
「そうか……」
……この時の二人は知る由もなかった。
騎馬王国の常識も、しがらみも価値観も……そのすべてを飲み込んでなお余りある、さながら地母神……否、水母神のような、帝国の叡智の圧倒的な器量を……。
大口を開けた大水母ミーアが、騎馬王国を飲み込もうと間近に迫っていた……。