第百七十六話 それぞれの馬観1
族長会議が開かれる地、騎馬王国の南都は、火の一族の隠れ里から馬で二日、と比較的近い距離にあった。
普段なら、馬車の中でうつらうつらしつつ、のんびり向かうところだが、今回のミーアは、あえて馬に乗って向かうことにした。
それは、馬龍の発案によるものだった。
「騎馬王国の民は、外国のお姫さまは馬なんか乗らないもんだと思ってるからな。上手く馬を乗りこなしているだけで、だいぶ評価が上がると思うぜ」
「そうですわね。まぁ、たくさん食べるために、少し運動しておくのもよいのではないかしら?」
などと思ったミーアは、二つ返事でオーケーした。
なにしろ、十二部族の族長が集まる族長会議。きっと美味しいおつまみが出るに違いないと確信するミーアである。ご馳走をゲットするためには、好感度は稼いでおくに越したことはないだろう。
そんなミーアの護衛を請け負ったのが、慧馬だった。火の一族のために、いろいろと尽力しているミーアへのお礼だということだったのだが……。
――ふぅむ、しかし慧馬さん、やっぱり少し元気がないように思えますわね。
隣に並んだ馬に乗る慧馬に、ミーアはチラリと視線を送った。
火の一族の村を出て以来、なぜだか、あまり元気がない様子の慧馬。
否、よくよく考えてみると、狼花と会談した時から、少し沈んでいるようにも見える。
――ラフィーナさまといい、なにか悪いものでも食べたのかしら? しかし、それにしては、わたくしがなんともないというのも妙な話ですわ。わたくしの胃腸は極めて繊細でデリケートなはずですのに……。
アンヌが仕入れてきたヨーグルトで今日も非常にお腹の調子が良いミーアであった。
……まぁ、それはさておき、このまま慧馬の元気がないのも気分が滅入る。
ということでミーアは、なにか、慧馬が元気になりそうな話題を振ってみることにする。
当然、話題は……、
「ところで、慧馬さん……その馬、とても見事な馬ですわね」
ミーアは、慧馬を乗せた黒毛の馬を見て言った。それはお世辞ではなく、完全なる本音だった。
荒嵐にも負けない引き締まったしなやかな体。力強く大地を蹴る足と、まっすぐに前を見据える澄んだ瞳。その艶やかな黒毛は、この馬がどれほど大切にされているかを表しているようだった。特徴的なのは、その白い鼻先だろうか。夜闇のような黒毛の中にあって、そこだけ光が浮き上がっているように見える。
「もしや、それは月兎馬ですの?」
そう問うと、慧馬はにやりと笑みを浮かべた。
「さすがはミーア姫。馬を見る目も確かなのだな。これは、我が火一族の宝馬だ。兄、馬駆の愛馬、影雷とは兄弟馬で、名を蛍雷という。騎馬王国の伝統的な月兎馬の純血種で、遡ると始祖、光龍の時代まで辿ることができる。この馬の血統を歌った歴史歌もあって……」
と、明るい声で話し出すのを見て、ミーアは少しだけ笑みを浮かべる。
――ふむ、元気が出たみたいでなによりですわ。やはり、慧馬さんはこうでなくっては、こちらまで調子がおかしくなってしまいますし……。
などと満足していると、
「……聞かないのか?」
「え?」
不意に、慧馬が真剣な顔で見つめてきた。
「聞くって、なにを?」
「この馬を売って金にしないのかって。食べ物に換えないのかって、聞かないのか?」
優しく蛍雷の首筋を撫でながら、慧馬は言った。
「我ら光龍の末裔にとって、馬は友。馬は家族。だが、一族の存亡の危機でもある。そんな中で、立派な馬を持ち続けることは、ぜいたくでわがままなんじゃないか、と、言われたことがあるのだ。だが……我は……」
苦しそうに、唇を歪めて言う慧馬に、
「あら? そんなことないのではないかしら?」
ミーアは、あっけらかんとした口調で言った。
「というか、馬を売ってしまうなど、あり得ないことですわ」
それは、ミーアにとって自明のことだった。
なるほど。確かに、馬を売り、食べ物を得れば、一時的に破滅を免れることができるだろう。だが……、それはあくまでも一時のこと。その場しのぎだ。
馬を売って手に入れた金は尽き、手に入れた食べ物はお腹の中におさまってしまうのだ。
お腹がいっぱいになり、動くのが億劫になったところで、破滅が襲い掛かってきたらどうするというのか? 馬がなければ逃げられないではないか!
それゆえに、ミーアは思う。
馬という脱出手段は、いつもいつでも、最後の最後まで手元に残しておくべきなのだ、と。
ゆえに、ミーアは言う。
「馬は、どこよりも遠い場所へと、わたくしたちを運んでくれるもの。手放すなんてもってのほか。死ぬ時は馬と一緒、ぐらいのことを思っておいたほうが良いのではないかしら?」
それは、最後まで逃げることを諦めないというミーアの固い信念! 揺らぐことのない部分である。
それを聞いた慧馬は、ぽかーん、と口を開けていたが……、やがて、小さく吹き出した。
「ふふふ、そうだな。まったく正しい。驚いた、ミーア姫は、騎馬王国の民などより、よほど馬のことがよくわかっているな」
ひとしきり、おかしそうに笑ってから、慧馬は首を振った。
「さすがは、我が友と見込んだ者だ」
「あら? そう言っていただけてなによりですわ」
さて、なにが評価されたのか、よくはわからなかったけど……。
――まぁ、慧馬さんに元気が出てきたのならば、それに越したことはございませんわね。
などと思うミーアなのであった。
そんな二人の心のうちを知ってか知らずか、ミーアを乗せた東風が、ふわああむ、っとあくびをした。
実になんとも平和な光景だった。