第百七十一話 族長、狼花の依頼
「ヴァレンティナ・レムノさん……、それって……」
さすがのラフィーナも少し驚いた顔で、アベルのほうを見た。アベルは……唇を噛み締めたまま、黙っていた。
「なるほど。それなら、あいつらが見かけたって言ってたのは、間違ってなかったってことか」
馬龍のつぶやきをよそに、狼花は、驚くべきことを言った。
「その後、巫女姫は、ほどなくして亡くなられたよ」
「蛇の巫女姫が、死んだ……?」
「ああ……。なにしろ、私よりもさらに年をとっていたから。それに、安堵なされたのだろうな……後継者ができたことで」
「……後継者」
嫌な予感に、背筋がぞわぞわするのを感じる。その予想が、決して外れていなかったことが、すぐに判明する。
「先代の巫女姫さまは、ヴァレンティナ・レムノにすべてを託して逝かれたのだ。蛇の書も、なにもかもを、な」
「それは……、それは、なにかの間違いではありませんか?」
かすれるような声で言うアベルに、狼花はゆっくりと首を振ってみせた。
「残念ながら、それが事実。彼女は、はじめ蛇の書を読むことを躊躇っていた。されど、巫女姫さまの勧めによってだんだんとそれにのめりこむようになり……、気が付けば日がな一日、それを読みふけるようになった。そうして、ある日、ヴァレンティナ姫は宣言する。自らが巫女姫となるということを」
淡々と告げられるその言葉は、一切の感情が込められることはなく……それゆえに、それが揺らぎようのない真実であることを主張しているかのようだった。
「我々はそれを受け入れた。巫女姫の代替わりは今までも何度もあったこと。今回のそれも、今までと別段変わらぬことである、とそう思っていたのだが……」
狼花は、そこでそっと瞑目し……、
「二年前のことだった。族長の馬駆は、突如、巫女姫を連れて、この村を出て行った」
驚愕の事実を口にする。
「そして、村の大部分の男たちは、族長を追って、村から出ていった」
「まぁ、それでは、男性の姿があまり見られないのはそういう事情だったのですわね」
てっきり、略奪隊が出かけているだけだと思っていたミーアには朗報である。それは、すなわち、
――大戦力が戻ってきて、力関係が逆転する、という事態にはならなそうですわね。ディオンさんによる大虐殺などもどうやら回避できそうですし。良いことですわ。
うむうむ、と頷いてから、ミーアは慧馬のほうに目を向けた。
「族長が不在だから、その妹たる慧馬さんが略奪隊を率いていたのですわね」
「無論だ。我は族長の妹、戦狼を使うこともできる。我が率いずして誰がみなを率いることができるだろうか」
キリリッとした顔で胸を張る慧馬。
「ん? ということは、先日の略奪隊は……」
「私たち、村の女の中で戦える者と、残った数少ない男たちで組織したものです」
従者の女性が言う。
「なるほど。そういうことだったんですのね。どうりであっさり引いたと思いましたわ。じゃあ、別に捕まってもどうということはなかったんですのね。まぁ、率いてるのが慧馬さんですし……あら……? じゃあ行きがけの盗賊団も慧馬さんたちだったんですのね?」
シオンの暗殺にかかわった盗賊団を思い出すミーアである。あちらも、慧馬たちであったなら、実際には暗殺なんか行われなかったかも……? などと首を傾げるミーアだったが……。
「なんのことだ?」
怪訝そうに眉を顰める慧馬。
「ほら。サンクランドとヴェールガを繋ぐ巡礼街道沿いで、わたくしたちを襲ってきたじゃありませんの? それで、ディオンさんに脅しつけられて逃げていったと聞いておりますけれど……」
と尋ねると、慧馬は苦り切った顔で言った。
「常識で考えてもらいたい。ミーア姫。あのディオン・アライアがいるとわかっている、そのような一行を我が襲うことがあるだろうか?」
その重たい問いかけに、ミーアは、深々と頷いた。
「ああ、なるほど。慧馬さんの言葉には、揺るぎようのない真理がありますわね……。ということは、あの時に遭遇したのが、族長さんと一緒に出て行った方たちなんですのね」
たしかに、ディオンが護衛を務める集団に喧嘩なんか売るはずもなし。ミーアは深々と頷きかけ……不意に違和感を覚える。
――ディオンさんのことを知っているということは、慧馬さんはもしかして、ここから出て行った火の一族の方たちとも交流を保っているということかしら? ふむ……。
腕組みし、考え込んでいたミーアは、慧馬の悔しそうな声に、思わず顔を上げた。
「兄上は、巫女姫に騙されている。口車に乗せられて、我が一族を破滅へと追いやろうとしているんだ」
――騙されている……。なるほど、蛇は心を操る術に長けていると聞きますし、可能性は十分に考えられますかしら……。いや、でも……。
ミーアは、そこで再び考え込んでしまう。
そもそもなぜ、族長の火 馬駆は、この村を出て行ったのだろうか?
今までの巫女姫と族長の行動は、ミーアにはなんとなくわかっていた。要は、この火の一族の中で、使えそうな手駒を選定し、訓練して、他国に送り込んでいたのだろう。
思えば、サンクランドでエシャール王子に毒を渡した人物も、騎馬王国の民のような恰好をしていたと聞く。それは、まさに、そのような人物だったのではないか。
しかし、もしそうならば今までやってきたように、これからも、細々とそれを続けていけば良かったのではないか? それこそが、本来の蛇のやり方なのではないか?
――いったい、なにを考えて、そのようなことを……。
「ミーア姫殿下、ヴェールガの聖女ラフィーナさま、それに……、林族の馬龍殿……」
ふと見れば、狼花が深々と頭を下げていた。
「どうか、みなさまにお願いしたい。我らから奪われた者たち、去っていった者たちを取り戻してはいただけないだろうか?」