第百七十話 火の一族の事情
「長老……」
狼花の突然の言葉に、慧馬が目を丸くしていた。従者の女性も思わず、といった様子で腰を上げかけた。
そんな二人に、狼花は、あくまでも落ち着き払った声で言った。
「意地を張っても、どうにもなるまい。我らの状況は、我ら自身ではいかんともしがたいところに来ている。ならば私は、この、友のために来たという方々に助けを求めたいと思う。理をわきまえていながら、あえて、それを自分で口にせず……説得するのではなく私が心を開くのを座して待とうとした、ミーア姫殿下に……」
そうして、狼花はミーアに目を向けた。
その優しくも穏やかな視線を受けて、ミーアは……。
――この様子ならば、ルードヴィッヒからのお説教はないかもしれませんわ!
ふぅうっと安堵の吐息を吐いた。
結果良ければすべてよし、で納得してくれるほど、ルードヴィッヒは単純な男ではないのだが、それでも、結果さえあれば、それをよりどころに反論もできようというもの。
絶望に、突如差し込んだ希望の光、それを喜びつつ、ミーアは耳を傾ける。
ここでの油断は禁物だ。狼花の話をしっかり聞き、問題を解決させてこそ、結果良ければ、と言えるようになるのだから。
「みなさまに聞いてもらいたい。我らが、いかにしてこのような窮状に陥ったのかを……」
そうして、狼花は話し出した。
「我ら火の一族と騎馬王国十二部族との間にあったことは、ご存知かな?」
「そうですわね。狼を使役する術を学び、それゆえに、騎馬王国から出された一族である、と、そのように聞かされておりますわ」
ミーアの言葉に頷きを返し、狼花は続ける。
「火族の族長、星馬は、ある時、狼を統べる術を知る一人の人物を連れてきたと言われております。巫女姫と呼ばれるその人物は、一冊の書物を携えていた」
「一冊の本……」
ラフィーナのつぶやき。ミーアも、あの本のことを思い浮かべずにはいられなかった。
「地を這うモノの書……」
「それが正しき名だと知ったのは、ずっと後のこと。私が物心ついてから、このかた、ただ『蛇の書』と呼んでおりました。表紙に書かれた蛇が印象的な本でしたのでな」
「失礼ですけれど、狼花さまは、その本を読んだことは?」
ラフィーナの問いかけに、狼花は首を振った。
「あの本を巫女姫が手放すことはありませんでした。それに、もしも手に取る機会があったとしても、我らは文字が読めません。我が騎馬王国はもともと文字を持たぬ部族ですからな」
言われて、ミーアは思い出した。
騎馬王国は文字にして書き残す文化がない。ゆえに、歴史歌により、一族の歴史を後世に伝えている。
林族の族長の話を思い出し……ミーアはふと首を傾げる。
「ん? ということは、もしやこの歴史語りも歌で伝えられたものなのでは?」
「あ、ああ……たしかにその通りですが、その歌は……」
などと、ちょっぴり気まずそうにする狼花……シャイなのだろうか?
「一杯飲んでいないと、ほれ、気持ちよく歌えませんでな」
陽気なおばあちゃんだった!
ミーアは昨夜の狼花の様子を思い出し、納得する。きっとほろ酔い気分で気持ちよく歌いたい人なのだろう。それはさておき。
「巫女姫は、何度か世代交代されていたが、常に、その本とともにありました。そして、いつでも、族長さまとともにあり、狼を操る術を与え続けた」
「なるほど。火の一族の全員が狼を使えるわけではない。族長だけが使えるものであったと……、あら? では、慧馬さんは?」
と、目を向けると、
「我は……その、少し興味があって……。いや、我が兄になにかあったら大変と思い、その術を絶やさぬようこっそりと聞いていただけのこと。うむ、別に小さな戦狼の子が可愛かったからだとか、そういうことではない」
そうして、慧馬は偉そうに胸を張る。
ミーアはそれに、生暖かい目を向けつつ……。
――ふむ、しかし、やはり蛇の巫女姫が関わっておりましたわね。それに地を這うモノの書まで出てくるとは……。これは、かなり敵の深部に迫っているのではないかしら……。
「族長さまと巫女姫さまは、時折、連れ立って村から出かけることがあった。その際には一人か二人、若者を連れて出て……若者のほうがしばらく帰ってこないということもあった。なにをしているのか、幼き頃は疑問であったが、その若者が美味しいお土産を携えてくることもあって、きっと良いことをしているのだと思っていた」
それ、絶対に、外に出てヤバイことやってますわ! などと思うミーアだったが、とりあえず黙っていた。ミーアは空気を読める人なのだ。
「そんな我が一族に変化が起こったのは五年前のこと……。巫女姫とともに出かけた当代の族長、火 馬駆が一人の若い娘を連れてきたのだ。傷を負い、意識を失っていた娘は、目覚めた時にこう名乗った」
狼花は、みなの顔を見渡してから、最後にアベルのところで視線を止めて、厳かな口調で言った。
「ヴァレンティナ・レムノ……。レムノ王国の第一王女である、と」
その名を聞いた瞬間、アベルがぴくり、と肩を揺らした。