第百六十九話 ……ないている
「改めて、失礼いたします。狼花殿。私はミーア姫殿下の家臣、ルードヴィッヒ・ヒューイットと申します。我が主ミーアさまに代わり、発言させていただきます」
静かに、ルードヴィッヒが話し始める。
それを横目に、ミーアは小さくため息を吐く。
――ああ、お説教ですわね。これは、間違いありませんわ。くぅ、油断がありましたわ。断頭台にかけられた直後であれば、あのように不用意なことは言いませんでしたわ。気が緩んでおりますのね……。気を付けなければ……、ああ、でも、お説教は嫌ですわ。ううむ、それはそうと、今日のお昼の食事はなにかしら……?
ミーアが、若干の反省の後に、潔く現実逃避を始める間にも、ルードヴィッヒの話は進んでいく。
「火の一族を助けることは、なにも情によるものだけではありません。食糧不足によって行われたあなたがたの略奪行為、これは、この地の治安を悪化させるものです。それを取り締まるのは一苦労でしょうし、騎馬王国とサンクランドの国家間にも亀裂が入りかねない。かといってやめろと説得するのも意味がないし、仮に略奪をやめたとして、ここに飢饉が発生し、疫病が流行るかもしれない」
一つ一つ丁寧に、淡々と、ルードヴィッヒが説明していく。
「私はあなたたちになんの情もないが、あなたたちに食糧を支援し、食糧を得る術を与えることはとても理にかなったことだと考えています」
そう結んだルードヴィッヒの言葉を引き継ぎ、馬龍が口を開いた。
「もう、いいだろう? 長老、狼花殿。我らはともに、始祖、光龍に連なる者。同じ血族ではないか。過去のいきさつがあり別れはしたが、その血の繋がりは否定できない。別れていたものが、また一つになる。今こそが好機なんじゃないのか?」
語られる言葉、それは、凍り付いた時を動かすに足る熱量を十分に持っている……たしかにそう思えて……でも……。
「だが……、戦狼のことはどうなる?」
その問いかけは、ひどく冷たく、再び空気を凍てつかせた。
「それは……」
言い淀んだのは、馬龍だ。そして、ルードヴィッヒの顔にも、苦いものが混じる。
それは、容易には解決しえない問題であったから。この場でどうすることもできぬ、一番の問題点であったから。
「それこそが、我ら火の一族が、主ら十二部族の者たちとともにいられぬ理由よ。林の若者よ。お前たちは、我ら一族の狼を使いこなす術を否定した。嫌悪し、捨てさせようとした。それは、今でも変わらないのではないか?」
「そうだ。お前たちが先に拒んだのだ。我々ではない。そのせいで、我らがどれほどの苦境に立たされたか……。それとも、今さら妥協をするというのか?」
狼花の隣に座る、従者の女性も続く。その顔に浮かぶのは、紛れもない怒りの色だった。
ただ一人、慧馬は……慧馬だけは、黙り込んでいた。黙って、ただ静かにうつむいていた。
そして、投げかけられた言葉に、馬龍は答えられなかった。有力部族とはいえ、しょせんは十二の部族のうちの一つにすぎず、しかも、彼は族長の息子というだけのものだ。
なんの権限もない以上、ここで軽はずみなことは言えない。
そうなってしまうと、自然、その場の空気は硬直せざるを得なくって……。重たい沈黙が、再び訪れようとした……まさにその時だった。
「……ああ、馬がないておりますわね」
ポツリ、とミーアがつぶやいた一言。
それは、まるで、水面に投げ入れた大きな石のようで……、広がった巨大な波紋がその場の空気を大きく震わせた。
「馬が……泣く……?」
そのつぶやきが、はたして誰のものであったのか……定かではない。されど、しばしの忘我から抜け出し、最初に口を開いたのは、長老、狼花だった。
「それは……つまり、我々が仲違いをすることで、馬たちを悲しませていると……そのようにおっしゃっているのか?」
その重々しい問いかけに、ミーアは……、少しばかり緊張したのか、
「……はぇ……い」
ちょっぴり、ヘンテコな声で答えた。
……そう、おわかりのこととは思うが……緊張の話し合いの最中にも……ミーアの現実逃避は続いていたのだ。なにしろ、ミーアのルードヴィッヒへの信頼は厚い。
彼が出張ってきた以上、自分の役割は終わったものと、ミーアが確信したとしても仕方のないことであった。
ということで、今日のお昼、夜のお食事、キノコが食べたい、この森にはどんなキノコが……などと、全力で逃避をしていたミーア。ではあったのだが……。
――ああ、いけませんわ。真面目に話を聞いておきませんと……。
しばらくして思い直す。そうなのだ、ミーアは、反省することにかけては、それなりに定評のある皇女殿下なのである。現実逃避の少し前、油断が過ぎると反省したばかりではないか。
――ここは気持ちを切り替えるために、なにか……数えて、精神統一するのがいいですわね……。えーと。
食欲という煩悩を振り払うべく、数えの極意を始めようとするミーアであったが……、残念ながら手頃の数えられるものもなく……。その時だった! ミーアは見つけた。否、聞きつけた。それこそが!
「……ああ、馬が鳴いておりますわね」
遠くに聞こえる馬の嘶きであった!
――ちょうどいいですわ。とりあえず、馬の鳴き声を数えて精神統一をいたしましょうか。
ランダムに聞こえてくる馬の鳴き声を数えることは、精神を集中させるのにちょうどよいのではないか? などと思っていた矢先、ミーアは感じ取る!
自身に注がれる、狼花の、その従者の女性の、慧馬の、馬龍の……、その場にいるみなの視線を。
その意味がまるで、わからなかったミーアは……、
「それは……つまり、我々が仲違いをすることで、馬たちを悲しませていると……そのようにおっしゃっているのか?」
その問いかけに……、
「…………はぇ?」
と首を傾げそうになるのを、なんとか、踏みとどまる。崖っぷち、気合の踏ん張りである。そして、
「い」
一文字付け足した! ミーア史に残る、全身全霊の軌道修正である!
そんなミーアをじっと見つめていた狼花は、ふいに、肩の力を抜いて……。
「なるほど……その通りやも、しれませんな」
苦笑いを浮かべた。
ミーアによって投げかけられた、たった一言によって起こった状況の激変……。
衝撃のあまり、ルードヴィッヒは、ただただ目を見開くばかりだった。
刹那の忘我の後、すべてがミーアの手の内であったことに気付いて……思わずうめいてしまう。
――なんということだ……、ミーアさまは初めから見抜いていたのだ。この件の、勘所を……。
火の一族に届きうるただ一つのもの。彼らが自分たちの一族の誇りたる狼を持ち出してきた時、唯一、彼らの心を揺らしうるもの。それはなにか?
馬しかないではないか……。彼らもまた、騎馬王国に連なる者であり、馬とは、神から与えられた至高の財産で、愛する家族なのだ。
それゆえに、馬を使うのは当たり前のこと。
そして、それゆえに、ミーアは合理的な説明をすべてルードヴィッヒに任せたのだ。
なぜなら「馬が泣いている」というセリフは、決して合理主義者が言ってはならないことだったからだ。そのような、感情に頼った言葉を合理主義者が口にすればどうなるか?
恐らく自分たちの説得のために馬を利用していると思われるに違いない。合理主義者は馬が泣くなどとは決して思わないが、相手を説得するために使えるならば使うのだろう、と。白けた目を向けられるに違いない。
「馬が泣いている」というセリフを言う者はあくまでも「感情の人」であり「感性の人」でなければならない。動物が泣くことを、本気で信じることができる人間でなければならないのだ。
――ゆえに……、ゆえにこそ! ミーアさまは、友情によって手を貸すという立ち位置を堅持しなければならなかったのだ。こちらの合理的な利点をしっかりと理解させた上で……感情的な壁をも一気に突き崩す……。あのような的確な一言を叩きつけるとは……なんという……。
戦慄すら覚えるミーアのやり方に、ルードヴィッヒはただただ感動し……。
――これは、あいつらに良い土産話ができたな。ふふ、もしかしたら、うらやましがられるかもしれないな……。
帝国で暗躍する女帝派の者たちの顔を思い浮かべるのであった。