第百六十五話 悪だくみ
そこは、歴史に忘れ去られた場所。
蛇の巫女姫が拠点として滞在している廃城。
その一室、かつての王が使っていた謁見の間で、蛇の巫女姫が本を読んでいた。
それは、彼女たちの聖典……「地を這うモノの書」であった。
「……また、それを読んでいるのか」
狼使いは部屋に入ってきて早々に、呆れた口調で言った。
「もう、何度も読んだだろうに。よく飽きぬものだ」
「飽きるはずがないわよ」
本を愛おしげに撫でてから、巫女姫は言った。
「本当に、これを書いたものは、人間というものを知り抜いているわね。悪意という目を通して人間の本質を見事に記している。読み直すたびに新しい発見があるから、なかなかやめられなくって」
そのまま、本に目を落としたまま、巫女姫は言った。
「それで、なにか用かしら?」
「知らせが入った。サンクランドで、燻狼が仕込んだ火種は、大火には至らなかったらしい。シオン王子は健在。エイブラム王は一時体調を崩したとの噂もあるが、今は変わらず公務をこなしている。第二王子エシャールは、サンクランドを出て、婚約者となったグリーンムーン公爵令嬢の家に預けられるらしいが……」
「なるほど。総じて、なにかは起きたけれど、大火事にはならなかった、と。それは残念」
こともなげにそう言って、本のページをめくる。そんな巫女姫に狼使いは眉をひそめた。
「あまり残念がってはいないようだが……?」
「うーん、そんなことはないけれど、でも、そうね。まぁ、どっちでもあまり変わらないでしょう。シオン王子やエイブラム王が死ねば死んだで、その混乱に乗じる術はあるし、生き残ったなら生き残ったで、別のやり方がある。簡単に思いつくものだと、そうね。傷心のエシャール王子に近づく方法を考えるとか。国を出されたということは、たぶん、エシャール王子はなにか失態を起こしたのでしょうし、その心の内には付け入る隙ができるのではないかしら?」
「それはどうだろうな……」
狼使いは表情を動かさずに言った。
「どうやら、帝国の叡智の介入があったらしい」
それを聞いた巫女姫は、初めて本から顔を上げた。ぽかん、と口を開け、そして、次の瞬間、
「それはすごいわ」
パチパチと拍手を始める。
「燻狼さんは、蛇導師としては優秀な人よ。その仕込みを嗅ぎつけた……。それは、本当にすごいわ。どうやったのかしら? なんでこのタイミングでサンクランドに来て、どうやって燻狼さんの企みを破ったのか……」
そうして、物思いにふけりかける巫女姫に、狼使いは続けて言った。
「それともう一つ、悪い知らせだ。火の一族の隠れ里に、林族からの救援が届いた。どうやら、慧馬が敵の手に落ちたらしい」
「ああ……、それは実に妹さんらしい……。あなたとは似ても似つかない口の軽さね」
くすくす、と笑って、巫女姫は頷いた。
「残念だわ。そのうち一緒にお茶を楽しみたかったのに、どうやら、その機会はなさそうね」
やれやれ、と肩をすくめる巫女姫に、狼使いは告げる。
「救援には、お待ちかねのアベル・レムノも同行しているらしい」
巫女姫、ヴァレンティナ・レムノの顔に、心からの笑みが浮かんだのは、まさにこの時だった。
「あはは、上手く釣れたわね。アベルは林馬龍と仲が良いと聞いていたとおり。そう、一緒に来るとは想定外だったけど、まぁ、問題ないかしら?」
ヴァレンティナの目撃情報は、無論、意図的に流されたものだった。
あの日、ミーア暗殺が企てられた夜から、この日の計画は立てられていた。
ミーア・ルーナ・ティアムーンとアベル・レムノとの関係性が表面上のものではなく、命を懸けるほどのものであることが、判明してから。
バルバラの行動と、それに対するミーアの反応。それらをつぶさに検証した結果、ヴァレンティナが出した、一つの策略。それこそが……。
「あの子が死ねば、帝国の叡智を歪ませることができる」
すなわち、アベル・レムノの暗殺だった。
巫女姫の言葉を聞き、わずかに、狼使いが顔をしかめる。
「心は痛まぬか? 実の弟の命を奪うというのは」
その問いに、ヴァレンティナはかすかに首を傾げて……、
「あたりまえでしょう? もちろん、痛む。痛まないと思ったの? とても悲しいわ。あの子は優しくて、うちの国の中ではまともだったもの。なんであの子と仲良くなるのって、ミーア姫に文句を言いたいぐらいだわ。あの子がこんなところで、命を落とすなんて、とても理不尽。こんなに悲しいことってないわ」
冗談で言っているのでは、たぶんないのだろう。彼女は、たぶん、真剣に悲しみを感じている。そのうえで、
「でも、まぁ……、それも些細な事。歴史の流れから見れば、人の感情なんて大したことのないものでしょう」
そう言った時、彼女の瞳は遠くを見つめていた。
「個人の感情、個人の命、町や村の滅亡、国の勃興であったとしても、歴史の大河からすれば些細なこと。私がどう感じるかなんて、大した問題ではない」
「蛇は、心を支配することで、世界の歴史を左右する。そうではなかったのか?」
「もちろんそうよ。私が悲しいのはどうでもいいけど、ミーア姫を絶望させることは、歴史を左右する大きなこと。バルバラさんは実に慧眼だった。大陸の、次世代の権力者たち、その中心にいる彼女の心を歪めることは、とても意味があること」
「ならば、どうだ? いっそのこと、ミーア姫の命を狙うというのは……」
「どういう意味でしょう?」
不思議そうに首を傾げるヴァレンティナに、狼使いは言った。
「どうやら、ミーア姫も林族の救援隊と同行しているらしい。彼女だけでなく聖女ラフィーナ、裏切り者のイエロームーン公爵令嬢や、ミーア姫の妹と呼ばれている少女もだ。面倒なことをせず、かの姫君の命を奪ってしまえば良いのではないか。そうすれば、実の弟に手をかける必要もなし」
重々しく、そう言う狼使いに、巫女姫は愛らしい笑みを浮かべた。
「ふふふ、優しいのですね。けれど、それをするためには、あなたがあのディオン・アライアに勝たなければならないと思うけど……」
巫女姫はそう言ってから……。
「でも……そう。その状況の変化は歓迎すべきものかもしれない。できることが増えるし、なにか考えてみることにしましょうか」
そうして、再び、本に目を落とすのだった。