第百六十一話 レムノ王国にて……
時間は、少しばかり遡る。
突然だが、レムノ王国の王城の一角には、王族専用の鍛練場がある。
軍事に力を入れるこの国では、王族にも相応の強さが求められる。ゆえに、王家の男たちは、そこで、日夜、己が剣の腕を磨くのである。
その鍛練場で、レムノ王国第一王子、ゲイン・レムノは一心不乱に剣を振っていた。
頭上高く振り上げた剣に、渾身の力を込めて振り下ろす、それは、レムノ王国流剣術の第一の構え。最も基礎的な構え。
剣を振り上げ、踏み込み、振り下ろす。
風のように速く、水を斬るほどに鋭く、岩を打ち砕くほどに力強く……。
ただただ、その一撃を洗練された動作へと高めていく。
それは、弟であるアベルがしたのと、同じ方向の努力だった。
そんな彼に声をかける者がいた。
「ほう。精が出ますな、ゲイン殿下」
「ギミマフィアスか」
ゲインは動きを止め、鍛練場の入り口に立つ老境の男に視線を向ける。
「アベルのお守りで出かけると聞いたが……」
「はい。明後日には出立いたしますので、そのご挨拶にと寄ったまでのこと」
「ふん……」
ゲインは剣をぽいっと投げ捨てて、肩をすくめた。
「やれやれ。生意気な弟を叩きのめすことばかり考えていたら、ついつい熱中してしまったらしいな」
それから、袖口でグイっと顔を拭う。かなりの時間、剣を振り続けていたのか、額には玉のような汗が浮かんでいた。
「なるほど。目的意識は大事ですからな。ご兄弟で互いを高めあえるならば結構なことでございますな」
心を清らかに、強い意志を持って剣を振るえ……などという綺麗事が、ギミマフィアスの口から出ることはない。
剣とは、相手を打ち倒すための技術。そこに必要なのは体を鍛え、最適な動きにて剣を振るうことのみ。
その鍛練のモチベーションがどれほど卑しいものであっても、彼は否定しない。それが強さに繋がるならば文句はないのだ。
もっとも、今はそれだけが理由ではないのだが……。
ギミマフィアスは、まるでゲインの心の内を見透かすように、穏やかな目で見つめていた。それが居心地悪かったのか、ゲインは落ちていた剣を拾い、ギミマフィアスのほうへと放る。
「ひさしぶりに、稽古をつけていただけるだろうか。剣術指南役のギミマフィアス卿」
慇懃無礼にそういうゲインに、
「ほう。稽古の成果をご披露いただけるとは、恐悦至極にございます。ゲイン殿下」
豪快な笑みを浮かべ、ギミマフィアスが構える。
「お相手仕りましょうぞ」
その言葉を待たず、ゲインは踏み込んでいた。
上段からの振り下ろし。アベルの必殺の一撃と同じ斬撃だった。
轟音を立てて向かってくる一撃を、ギミマフィアスは冷静に受け止める。
「ふむ、なかなか。悪くない一撃ですぞ」
そのまま押し返して、改めて、剣を構える。
「不意打ちからの躊躇のない一撃、並みの相手であれば、一刀のもとに葬ることができましょう」
ゲインは、それには答えず、再度、踏み込み。一撃を放つ。が、これもまた、ギミマフィアスには届かない。
「……難なく止めるな」
「ははは、剣術指南役ですので」
豪快に笑うギミマフィアスに、ゲインは顔をしかめた。
「悪くない一撃、と言ったが……アベルと比べてどうか……などと、貴様に聞いたところで詮無きことなのだろうな」
「ほう。吾輩が、アベル殿下の実力を見誤ると?」
「俺が鍛練に駆られるよう、評価を偽るぐらいは平気でする。貴様はそういう男だろう?」
「やや、それは心外な。吾輩は、ただ、忠実に剣術指南の任を全うしようとしてのことでございます。しかし、愚直なまでの振り下ろしですな」
「まさか、弟に負けるなどとは思っていなかったからな。余計に腹が立つのだろう、さ!」
下げた刀身を、今度は勢いよく振り上げる。それを、体を反らすだけで躱して、ギミマフィアスは、納得の頷きを見せる。
「なるほどなるほど。確かに、吾輩の見立てでも純粋な才でいえば、ゲイン殿下が負ける道理はなし。アベル殿下の努力が報われたということなのでしょうな。見違えるほどになりましたからな、アベル殿下の剣は」
そう笑ったギミマフィアスに、ゲインは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「まさか、貴様の口からそんな言葉を聞こうなどとは思わなかったぞ。ギミマフィアス」
「ん? どういうことでしょう?」
「努力が報われる……、くだらない戯言だ」
吐き捨てるように言うゲインに、ギミマフィアスが眉をひそめた。
「おや、なにかご機嫌を損なうことがございましたか?」
「……ただ、不快なことを思い出しただけだ。誰よりも努力をし、不条理に抗おうとした挙句、呆気なく死んだ、馬鹿な女のことを」
剣を振るう。今度は、愚直な振り下ろしではない。中段構えからからめとるような、奸智の剣、本来の彼の剣だ。
「姉に、剣を教えていたお前は、知っているだろう。姉は鍛練を欠かすことはなかった。誰よりも必死に剣術を身に着け、この城の誰にも負けぬ技を身に着けていた。それだけではない。勉学も、姫としての礼節も、あらゆる面で、姉は人並み外れた努力をした。だが、姉は死んだ。なすべきこと、自らに課したことを何一つなせぬまま、ただ呆気なく命を落とした。虚しく、意味のない一生だった」
踏み込んで一撃、さらにもう一歩踏み込み。かと思えば、引き。
変則的な動きで、ギミマフィアスの構えを崩そうとする。が、剣聖と呼ばれる男にとって、それは児戯にも等しき動きだ。
繰り出された斬撃のすべてを捌き切られた時、ゲインの顔には、自嘲するような笑みが浮かんでいた。
「努力が報われるなどと、下らぬ戯言だ。もしそうならば姉が……報われないなどということは、あり得なかったはずだ」
そうして、ゲインは剣をぽいっと放り捨てた。
「くだらん鍛練だった。汗をかいてしまったではないか」
不服そうに鼻を鳴らし、その場を後にするゲイン。
その背中を見送って、ギミマフィアスは顎を撫でた。
「なるほど……。ゲイン殿下は未だに姉君の亡霊に縛られているご様子で……」