第百六十話 間違いなくミーアである
一面に広がるのは、爽やかな草原の光景だった。
さわわ、さわわ、と穏やかな風が、金色にも近い緑色の中を駆け抜ける。遠く、どこまでも遠く続く草原が、まるで湖面のように波立っていく。
風は絶えず草原に波紋を作り、さわやかな緑の匂いを運んでくる。
はるか彼方に見える小高い壁は、美しい緑と青空とを隔てる境界線。無限に広がる空は胸のすくように深い青、そこにちらり、ほらり、と白い雲が浮かんでいる。
そんな草原の中を、馬が一頭、のんびりと歩いていく。
馬に乗るのは年若き少年と少女だった。後ろに座った少女は、穏やかな日差しに、青く澄んだ瞳を細める。
風に吹かれて踊る髪、それを片手で押さえて、少女は朗らかな笑みを浮かべた。
……誤解がないように言っておくと、深窓のご令嬢の描写ではない。ミーアの描写である。
その証拠に……
「うふふ、あの空に浮かぶ雲、まるで羊みたいですわね。一匹、二匹……」
などとつぶやいている。間違いなくミーアである。ミーア以外の何物でもない! FNY!(QED!)
まぁ、それはさておき。
馬版ミーア改め「東風」に乗ったミーアとアベルは、のんびり草原を進んでいた。
ちなみに、前に乗るのがアベル。その後ろで、あたかもヒロインのような表情を浮かべているのがミーアである。一瞬前まで、雲羊を数えていた人と同じなどとは、とても信じられなかった。
切り替えの早いのがミーアの良いところである。
――それにしても、ふふ、思い出してしまいますわね。初めて馬に乗った時のこと……。あの時はものすごくいい雰囲気でしたわね。乗馬に不慣れなわたくしを、アベルが優しくサポートしてくれて……。馬の上で見つめあって、愛を語らいあったりして……。
……ミーアの記憶の中で、若干の改竄が行われていた。
まぁ、それはともかく……。
――それにしても、アベル……なんだかまた背中が大きくなった気がしますわね。
ミーアはまじまじとアベルの背中を眺める。
最初に乗った時には、まだ、少年のような線の細さがあったが……、今、こうして見つめる背中は引き締まり、姫を守る、勇敢なる騎士の風格が見て取れた。
――このまま、どこか遠くへ行ってしまうのも、悪くないかもしれませんわね。うふふ、愛の逃避行ですわ。
なにから逃げるのかは定かでないが……。そういうものにあこがれるお年頃なのである。そう、ミーアは十五歳の乙女なのだ。純粋な乙女なのだ。乙女……乙女……? 乙女なのだ!
――ふむ、前に乗るのも安心感がありますけれど、やっぱり、守られて乗ることができる、この乗り方が好きですわね。うふふ、満足ですわ。
などとひとしきり恋愛欲求を満たした後、満を持して、ミーアはアベルに声をかけた。
「ねぇ、アベル……、いったいなにがございましたの?」
「なにって?」
振り返ることなく、アベルが言った。心なしか、その声が固いように、ミーアには感じられた。
馬龍と話をした後、明らかにどこか様子がおかしいアベル。今日だって、ミーアが話しかけるまではどこか上の空で、口数も少なかった。
アベルは紳士だ。遠乗りに行けば自分から声をかけてきてくれて、決して、ミーアを飽きさせることがない。
気遣いができる人なのだ。でも……、今日はそんな普段の彼は鳴りを潜めている。
とても……気になった。
「とぼけないでくださいまし。昨日から、あなた、少し様子が変ですわ」
「そうかい? そんなつもりはないんだが……」
軽く、振り返ったアベルに、ミーアは重々しく頷いた。
「わたくしから見れば一目瞭然ですわ」
そう言ってやると、アベルははじめて笑みを見せた。
「やれやれ……。君には隠し事はできないな……」
それから、小さくため息を吐いてから言った。
「実は、馬龍先輩が教えてくれたんだ……。狼を連れた男と、ボクの姉とが一緒に目撃された、と」
「狼を連れた男……それって……」
「詳しいことはわからないみたいなんだ。馬龍先輩自身も聞いた話らしくって……。そもそも見たのは他の部族の人間らしくってね……」
「そうなんですの……。それは、心配ですわね。アベルのお姉さまというと、クラリッサ王女殿下ですの?」
レムノ王国の王族の名前を頭に思い浮かべつつ問う。と、アベルは小さく首を振った。
「いや……、そうじゃない。一緒にいたのは、ヴァレンティナ姉さまだ」
「あら? でも、そのヴァレンティナ殿下というのはたしか……」
首を傾げるミーアに、アベルは小さく頷いた。
「ああ。ヴァレンティナ姉さまは死んだ。五年前に死んだはずだった。でも……」
と、そこでアベルが言葉を切って続ける。
「死体は見つからなかったんだ」
「え……?」
「崖から落ちたんだ。馬車の残骸が、後日見つかって……、姉さまたちは全員落ちて死んだと。そう判断されたらしい。死体は、食い荒らされたんだろうって……あたりを狼がうろついていたらしいから……」
吐き出すようにそう言って……、それから、アベルは振り返ってミーアを見つめた。
「死んだはずの姉が……、ヴァレンティナ姉さまが、狼を連れた男と歩いていた……。その真偽を確かめるために、ボクは騎馬王国に来たんだ」
その、泣きそうな瞳を見て、ミーアは……、なぜか、胸がキュッとしてしまう。
なにか言わなければと思い、焦って、考えて……。結局、口を出たのは、ごく当たり前の言葉で……、それは。
「……良かったですわね」
「え……?」
その言葉に、きょとん、と、虚を突かれたような顔をするアベル。ゆっくりと言い聞かせるように、ミーアは続ける。
「死んだと思っていたお姉さまが生きていたこと……、良かったですわね」
口に出してみて、思う。
そう……それはきっといいことだ。
「それは、喜ぶべきことですわ。アベル、あなたは、喜ぶべきですわ」
もし、仮に、アベルの姉が蛇の関係者であったとしても……生きてさえいれば、話すことができる。触れ合って、もしかしたら、正気に戻すことだってできるかもしれない。
それは、死んでしまっていたら、どうしようもできないことだったから。
「喜ぶべきことですわ」
ミーアは、繰り返して言った。
「そう、か……。ボクは、喜んでいい、のか……」
しばしの沈黙の後、アベルの口から、ポツリ、と言葉が零れ落ちた。
「そうですわ。もっと嬉しそうになさいまし」
それを、堂々と肯定して、ミーアは言った。そして、
「そういうことでしたら、意地でもお会いして、ご挨拶しなければなりませんわね。あなたの姉君に」
この機会に未来の小姑を味方につけてやりますわ! っと鼻息を荒くするミーアであった。