第百五十八話 ミーア姫、TPNをわきまえる
結局、火一族への救援部隊は翌日、出発することが決定した。
林族の者たちが輸送を担い、ラフィーナの護衛はミーアの皇女専属近衛隊が担う。
輸送・護衛をすべて林族で担う場合と比べ、かかわる人数を三分の一以下にすることで、慧馬を納得させたのだった。
――だから、最初から自分も行くと言わなかったのね……。
交渉を終えたミーアを見て、ラフィーナは感心していた。
不思議に思っていたのだ。ミーアがなにも言い出さず、すべてを騎馬王国に任せるような態度をとったことも。
ラフィーナの行動に同調せず、自分には関係ないこととして幕屋を後にしたことにも。
なるほど、たしかにミーアには直接関係のない案件ではあったが……。ミーアが困っている民を見捨てるようなことをするだろうか?
それ以上に、まがりなりにも、友と慕ってくる慧馬を放っておくものだろうか? と。
自分に問いかけ、絶対に! そんなことは!! あり得ない!!! と思っていたラフィーナだったが……。
――一度、自分があの場を去ることで、私の護衛を騎馬王国の者たちが務めるという、高い条件を提示して、その後で護衛は帝国兵で担うと条件を下げる。そうして、慧馬さんにわかりやすい妥協点を提示した……。さすがだわ……。
などと、感心しきりのラフィーナである。
一方、林馬龍もまた、ミーアの言動に驚かされることになった。それは……、
「すまなかったな。話し合いが長引いちまって……」
そう頭を下げると、ミーアは愛想よく微笑んでぺらぺらと手を振った。
「大したことはございませんわ。大切な話し合いが無事に終わったようでなによりですわ」
「ああ。嬢ちゃんのおかげで助かった。お礼に、とびきり美味しい醍醐羊のミルクを御馳走するぜ」
っと、馬龍が走っていこうとしたところで、ミーアがそれを止める。
「いいえ。それには及びませんわ」
「えっ……?」
立ち止まり、思わず首を傾げる馬龍である。
たしかに、貴族の中には、ミルクの味になど興味を示さない者もいるが、ミーアの場合には違う。ここに来る途中に、心から楽しみにしていたのをきちんと見ているのだ。
余談だが、馬龍はミーアのそういうところも気に入っている。着飾らず、美味しいものを美味しいといい、心から楽しめる。その自然体は、とても好ましいものと思っていた。
そんなミーアが、なぜ……?
戸惑う様子の馬龍に、ミーアは穏やかな笑みを浮かべて言った。
「それはまた後日、必ずいただきますわ……。そうですわね、この件がすべて終わってから……」
加えて、ミーアは言った。
「ああ、それと宴会のお料理も、わたくしは少なめでも構いませんわ。もちろん、ここまで付き添ってくれた兵士たちやわたくしの家臣たちには、たっぷりと食べさせてあげてほしいのですけど……」
「嬢ちゃん……」
馬龍は思わず、息を吐き……大いに感動した!
おそらく、ミーアは火の一族の境遇に同情したのだ。それゆえに、ここで宴会の食事を食べることを、よしとはしなかった。
空腹に苦しんでいる者がいるのに、その仲間である慧馬の目の前で、自分が腹いっぱい御馳走を食べる……。それが許せなかった。
ミーアは、きちんと時と所と場合(TPO)をわきまえているのだろう。
さらに、
「断食、ということかしら……。それは、火の一族の問題が解決するように、という願いを込めての……」
ラフィーナが言った。
中央正教会では、神に強く願い求める時、食事を断ち、その時間をも神に願いをささげる時とする「断食」という習慣がある。
なるほど、その視点はなかった、と、馬龍がミーアのほうに目を向けると、ミーアは、ちょっぴり慌てた様子で首を振った。
「い、いいえ、そこまでのものではありませんわ。本当に。もちろん、お食事はいただきますもの。ただ、量を減らそうというだけの話で……」
その慌てた様子に、馬龍は思わず吹き出しそうになる。
たぶんミーアは照れ臭かったのだろう。
本気で慧馬を心配し、その一族のために尽力する、そのために断食すらして、必勝の思いを新たにする……、そんな姿を見られることが、気恥ずかしかったのだ。
だからこそ、こんなにも慌てているのだ。
そして、その気持ちは、どうやら慧馬にも伝わったらしい。
「我が一族のために、かたじけない……。ならば、我も食べることは控えよう」
「いえ、それは駄目ですわ! えーっと、そう。食べなければ、力が入りませんし、自分の勤めも果たせなくなってしまいますわ。きちんと食べて明日からの旅路に影響がないようにする。それも大切なことですわ」
そう言われては、慧馬としても反論できないだろう。
――自分も少しは食べる、と言っているのはそのためか。たしかに、旅の途中に断食なんぞするものじゃない。倒れちまったら元も子もないしな。つまりは、嬢ちゃんは、自分にできるギリギリのところをきちんと見定めているってことか。つくづく大したやつだ。
馬龍は満足げに頷き、そして思う。
――嬢ちゃんがこの様子なら、たぶん、アベルのやつも大丈夫だろう。
と。
……さて、その場にいる彼らは、誰一人、気付いていなかった。
ミーアが……、微妙にお腹をさすっていることに……!
もうお分かりだろう。なぜ、ミーアが醍醐羊のミルクのみならず、宴会の食事をも控えようとしたのか。
そう、飲み過ぎである!
話し合いの最中からずぅうっとホットミルクをカパカパ飲んでいたせいで、ミーアのお腹はすでにタプタプなのだ。
帝国の食道楽姫、ミーアは美味しいものを口にする時のコンディションを気にする人である。特に、はじめて口にする超美味なものであれば、なおのことである。
――絶品ミルクというならば今日飲むべきではありませんわ。それに、なんだかんだでお腹一杯。宴の食べ物もそこまでは食べられない感じがしますわ。くぅ、失敗しましたわ。こんなことなら、もっとミルクを自重していれば……。美味しいからスルスル飲んでしまいましたわ。
そうなのだ。食道楽ミーアにとって、美味しいバターもパンもケーキも、そして、ミルクもすべて飲み物なのだ!
……まぁ、ほとんどの人にとってミルクは普通に飲み物ではあるが……。それはともかく。
――せっかくのお料理が食べられないのはもったいないことですけど、こんなにお腹がたぷんたぷんしていては、仕方ありませんわ。
そう、ミーアは、自らのお腹のタプン(TPN)をわきまえているのだ。
「それならば、ヨーグルトにしましょうか? 滋養があって、美容にも良いと言われております。ハチミツをかけて食べると、とても美味しいですよ」
話を聞いていた林族の女性の言葉に、ミーアはにっこり微笑んで、
「ありがとう。お気遣いに感謝いたしますわ」
それから……、改めて言った。
「それでは、御馳走はまたいずれ……。すべてが片付いた時に。みなで一緒に……」
心からの決意を込めた、それは宣言。
今度こそは、最高のコンディションで美味しい騎馬王国料理に向き合おうという、固い固い決意を込めた宣言なのであった。
ちなみに……、この後、食べたヨーグルトはとても、とぉっても美味しくって、大満足なミーアであった。