番外編 司教帝ラフィーナの城
箸休め的な番外編です。
ヴェールガ公爵令嬢であったラフィーナが「司教帝」を名乗るようになって、最初にしたことは遷都であった。
彼女は居城をヴェールガ公都から、ある場所へと移したのだ。
ある場所……司教帝が住まう場所……。
それは、かつて大陸随一の学園都市が栄えた島……、セントノエル島だった。
友を持たず、家族も今はなく……、復讐の炎ですら、もはやその胸には残ってはいない。そんな壊れかけの彼女が、かろうじて正気を保っていられたのは、懐かしくもほろ苦い思い出の城にこもっていたからだった。
その日、彼女は執務室で報告を受けていた。
そこは、かつて彼女が生徒会長と呼ばれていた時期、最も多くの時間を過ごしていた場所……生徒会室を改装した部屋だった。
「それで、首尾はいかがかしら? 蛇の者たちは、きちんと排除できた?」
お気に入りの、姫君の紅頬を使った紅茶を飲みつつ、司教帝は問うた。
「はっ。我が聖瓶軍の支配地域内では順調に、混沌の蛇のあぶり出しが行われております。住民たちに呼びかけたところ、次々に訴えが上がってきておりまして、現在、その真偽を調べているところで……」
「あら? それでは時間がかかってしまうでしょう。訴えられた者たちはすべて処刑してしまってもいいのではないかしら?」
「は……? いえ、ですが……」
「火のないところに煙は立たないでしょう? それに、蛇は疫病のようなもの。一人逃せば、その病は途端に十人、二十人と増えていく。ねぇ、あなた、腐ったリンゴを食べないためにはどうすればいいか知っていて?」
不意に、ラフィーナは清らかな笑みを浮かべた。
「簡単なこと。腐っているものは捨てて、腐っているかもしれないものも、すべて捨ててしまえばいいの。疑いがあるものの中に、腐ってない、食べられるものかもしれない、などという目を向ける必要はないわ。必要なのは、疑いのあるものの中から食べられるものを見つけることではない。決して腐ったものを口に入れないこと。わかるかしら?」
それは、混沌の蛇に対して、彼女が掲げた基本方針だった。
混沌の蛇は殺し、その疑いがある者も根絶やしにする。その苛烈なやりかたに、サンクランドの天秤王シオンなどは、諫言を送ってきているようだが、ラフィーナは一向に気にしてはいないようだった。
「それで、騎馬王国のほうはどうなっているかしら?」
「はっ。ほとんどの部族が我が聖瓶軍に恭順の姿勢を示しております。また、林族ですが、どうも、サンクランドのシオン王子に頼ったようで……」
今や、騎馬王国の部族は半数にまで減っていた。
最大部族、林族は族長である馬優亡き後、その息子、馬龍に従ってサンクランドに身を寄せていた。
「そう……。馬龍さんとシオン陛下が……」
かつて親しくしていた者たち。懐かしき思い出に、わずかばかりラフィーナが小さく首を傾げた。
別に感慨はなかった。
感傷に浸るには、彼女が失ったものはあまりにも大きかったから。
その胸に空いた空洞は、些細な感情など容易に飲み込んでしまって……、だから、ラフィーナがそれを感知することはなかった。
「敵にするには面倒な相手ね……」
ただ、それだけつぶやき、悩ましげなため息を吐くのみだった。
「それと、騎馬王国の国境付近で見つかった例の隠れ里ですが、生存者を保護したとの報告を受けております」
「生存者……? 捕虜……ということかしら? 混沌の蛇をかばう者たちは、皆殺しにせよと命じておいたはずだけれど……」
すぅ、っと、冷たい視線に射られて、報告者たる兵はびくり、と体を震わせる。
「は、はい。もちろん、混沌の蛇、ならびに、蛇をかばった者たちは皆殺しにし、村も焼き払ったようなのですが……、その者は廃墟の城の牢に囚われておりましたので……」
「囚われていた?」
「はい。聞けば高貴なる身分の方。混沌の蛇に囚われて久しいとのことでしたのでお連れしたのですが……」
「そう。それは、大変な目に遭われたのですね。お可哀そうに……」
そうして司教帝は一転、憐れむように、顔を歪めた。
なぜなら、彼女は……司教帝ラフィーナは、聖女だからだ。
悲惨な目に遭った相手に共感し、相手の傷を憐れむことができる、慈愛の聖女だからだ。
混沌の蛇に監禁され、酷い目に遭った女性……それは、聖女の憐れみを受けるに足る資格を持つ者である。
あの日、あの聖夜祭の夜の大量毒殺事件によってひび割れた心は、その後のミーアの死によって完全に壊れ、砕けてしまったけれど……。それでもラフィーナは聖女だった。
倒れ伏す哀れなる者に慈悲をかけ、自らが汚れることも厭わず、地に膝をつき抱き起す……無私なる聖女。優しさの人であった。
その、苛烈なる粛清者の顔と、弱者を憐れむ聖女の顔、そのどこか壊れたアンバランスさが、奇妙な魅力を増し加え、彼女のカリスマ性を、世界を飲み込むほど強大なものにさせていた。
「どうぞお連れして。丁重にお願いね」
報告者たる兵は一礼して、きびきびと部屋を後にする。
その胸に、畏怖にも似た忠誠を抱きながら。
やがて、入ってきたのは細身の女性だった。黒く美しかったであろう片鱗を見せる髪には、囚われていた時の恐怖からだろうか、ところどころ白髪が混じっていた。
女性は、司教帝の前に膝をつき、深々と頭を下げる。
「この度は、お救いいただき、感謝の言葉もございません。司教帝猊下」
「たいしたことではありません。どうぞ、頭をお上げください。それで、あなたはいったい……」
「お初にお目にかかります。司教帝猊下……」
その女性は、悄然とした顔に、ほんのわずかばかりの笑みを浮かべて、ラフィーナを見つめて……言った。
「ヴァレンティナ・レムノと申します……」
その笑みは……、なぜだろう、ラフィーナの目には一瞬、蛇のような狡猾なものに見えて……けれど、それもすぐに溶けて消える。
後に残るは、どこか可憐で儚げな……、傷ついた女性の笑みだった。
本日、活動報告も更新いたします。