第百五十七話 帝国の叡智の家臣に相応しく
「ああ……、お前が姫さんが言っていた狼か……」
一方、その頃……。
ディオン・アライアは林族の集落を離れて、一人、森の中にいた。
ミーアたちからの報告を受けて、件の戦狼を探しにやってきたわけだが……、思いのほかあっさりと見つかってしまい、ディオンはいささか拍子抜けしていた。
薄暗い森の中、丸くなり寝そべっていた戦狼は、耳をピンと立て、ディオンのほうを見た。その目に剣呑な光を湛え、鼻の頭にしわを寄せる。
口の端に覗いた鋭い牙に苦笑しつつ、ディオンは肩をすくめた。
「おいおい、やる気かな? お前の兄弟は、僕に挑む愚を悟るぐらいには賢かったんだけどね」
そう言いつつ、腰の剣に手をかける。
しばしの睨みあい、その後、戦狼の体から力が抜けた。
「ふーん。襲ってこないのか。やっぱり、ただの狼とは違って賢いみたいだね……。しかし、あの時に見た狼ともまた違うか。やれやれ、世の中には頭のいい狼がこんなにいるものなのか」
顎を撫でつつ、ため息一つ。
「ともあれ……、狼使いとあの少女が関係しているというのはどうやら間違いないみたいだね……。さて……、姫さんはどうするつもりなのやら…………ん?」
不意に、ディオンは腰の剣に手を伸ばした。
――なんだ? 今……一瞬だけ……見られていたような……。
周囲に視線をやるも、異変はなく。かすかに感じた気配もすぐに消えてしまっていた。
警戒を解かぬまま、周囲と狼とを交互に見やってから、ディオンは静かにため息を吐いた。
「やれやれ……きな臭いね。どうも」
「ああ、ディオン殿、ちょうどよいところに」
集落に戻って早々に、ルードヴィッヒがやってきた。
「さて、どうかしたのかい? なにか厄介ごとでも?」
「ああ。実は少々予定が変わった。帝国に帰るのがもう少し先になりそうなんだ」
そうして、ルードヴィッヒから事情を聴いたディオンは、
「火の一族の隠れ里……ねぇ」
思わず、といった様子で天を仰いだ。
「なるほど。お人好しのうちの姫さんなら、躊躇いなく首を突っ込みそうな案件だ」
「それは否定できないが……。しかし、お人好しとばかりも言えないさ。前にも言ったが、ミーアさまの構想の実現には、騎馬王国の安定が必要だ」
ルードヴィッヒは苦笑いを浮かべて、それから、真面目な顔で続ける。
「それに、今後のことを考えれば騎馬王国と仲を深めておくのは悪いことじゃない。相手が万全な状態の時に頭を下げて交渉を求めるのと、弱っている時に手を差し伸べるのと、どちらが相手との仲を深めるのが容易か、考えるまでもなくわかることだからね」
「手を差し伸べるに良き時か……なるほどね」
それから、ディオンは、やれやれ、と肩をすくめた。
「まぁ、あの狼使いとまた戦えるというのなら、僕としては願ったりではあるんだけどね……」
どこか歯切れの悪いディオンの言葉に、ルードヴィッヒが首を傾げた。
「なにか、気がかりなことが……?」
「いくつかね。そうだな、今、具体的に思いつくのは二つ。一つは混沌の蛇の思惑。あの、慧馬という少女は、十中八九、蛇の関係者だろう?」
「そうだろうな。ミーアさまは、まだ断定はしておられないようだったが……。狼を使うような技術が、そうそうあるわけもなし……。例の暗殺者の関係者とみるのが自然だろうな」
もしそうだとするならば、彼女の存在自体が罠という可能性もある。あの慧馬という少女が嘘を言っているとも思えないが、持ってきた情報の真偽のほどは定かではない。
「そして、もう一つはレムノ王国の動向だろうか?」
先回りするようにして出されたルードヴィッヒの問いかけに、ディオンは笑みを浮かべた。
「まぁ、気付いてるよね、君なら。あの国は自国の騎馬部隊の教練のため、騎馬王国とも関係が深い。帝国が騎馬王国と接近するのを望まないだろう。なんらかの介入をしてくるのは、当然予想しておくべきだ」
ディオンは腕組みして、続ける。
「まぁ、アベル殿下に関してはほぼ心配していない。剣を交えるまでもなく、あれは、腹芸ができる手合いじゃないだろう。なにか隠しているような気はするけれど、とりあえず、放っておいても大丈夫のはず。少なくとも、姫さんに危害を加えるようなことはないだろうさ。けど……」
と、そこで言葉を切って、ディオンはそっとあたりを視線でうかがって、声を潜めた。
「どちらかというと気になるのは、レムノの剣聖殿のほうかな」
「ギミマフィアス殿か……。あの御仁がなにか……」
「食えない爺さんだと思うよ。当人の性格はともかく、なまじっか腕が立つから、もしもレムノ国王からよからぬ命令を受けていた場合……厄介なことになりそうだ」
ディオン・アライアは、自身のことを模範的な騎士であるとは考えていない。どちらかといえば不良騎士、不平屋の趣が強いと思っている。
そんな自分であったとしても、基本的に仕える主君の命には従うことにしている。まして、相手はレムノの剣聖と呼ばれる男。長年、レムノ王家に仕え、王族への剣術指南をこなし、その剣技の基礎を作り上げてきた忠臣である。
主君の命令は、忠実無比に執行するだろう。
「なるほど。レムノ国王は……、たしかに、無条件に信用できる人物ではないな……」
「まぁ、それでも、僕がつきっきりで相手をしていいのであれば、どうにでもできるのだけどねぇ」
ディオンの言わんとすることを察したのか、ルードヴィッヒが頷く。
「そうか。それこそ、狼使いが現れた場合には厄介なことになる、と?」
思惑の異なる三人の実力者が一堂に会した時に生じる混沌、その先にどのような未来が待ち受けているかは未知数で……。
「まぁ、さすがに直接、姫さんの命を狙ったりはしないだろうけど、一応気を付けたほうがいいと思ってね。姫さんの言いようじゃないけど、注意していて何も起きなければ臆病を笑えばいい。注意もせず何か起きた時に後悔するよりはずっとマシだからね」
「それもそうだ。たしかにそれこそが、ミーアさまの家臣に相応しいありようだな。わかった。ギミマフィアス殿の動き、それにアベル王子の、レムノ王国の動向には注意しておこう」
ルードヴィッヒは深々と頷いた。
明日はちょっぴり番外編