第百五十六話 わがままで小心者なお姫さまの選択
――え? え? アベル……ど、どういうことですの?
突然のアベルの発言に、ミーアは大いに戸惑った。
『さぁて、これにて一件落着ですわ。あとは、例の醍醐羊の究極に美味しいミルクをいただいて、あわよくば、馬優さんと乳製品の取引の話を取り付けて、帰るだけですわね!』
などと油断の極致にいたミーアだったから、アベルの行動は想定外もいいところだったのだ。
いったいなぜ、と訝しむミーアであったが、直後に気付く。
アベルが、どこか、思いつめたような顔をしているということに。
――そういえば、わたくしが水浴びから戻ってきてから、少し元気がなかったような気がしますわね。もともと、馬龍先輩となにか話があるということでしたけれど、なにか言われたのかしら……。気になりますわね。ふむ……。
「それでは、ラフィーナさま、それにアベル殿下も少し打ち合わせをしましょう。それに、馬龍も、部族の中から誰を連れていくか選別を進めてくれ。明日には出てもらうぞ」
「おい、待て。我はまだ、この話を引き受けるとは……」
などと、慧馬はもそもそ言っているが……、恐らくはあのまま流されていくことだろう。
――そもそも慧馬さん、直接には話をしないみたいに言ってましたけど、今ではごく普通に話してますし……。実にチョロい……。うん……、きっとこのまま丸め込まれてしまいますわね。
となれば、ミーアはここでお役御免だった。
歓迎の宴の準備が整うまでの時間、のんびりしていて良いと言われたミーアは、ベルとシュトリナとともに幕屋を後にした。
――ふむ……まぁ、気にはなりますけれど……、わたくしには関係のないことですし……。
アベルの様子が微妙に気になり、後ろ髪引かれる思いではあったものの、もはやあの場所にはミーアの役割はなく。というか、むしろ、これ以上あの場に居座ったら、面倒なことに巻き込まれそうな感がふつふつとしていたわけで……。
「気になりますけれど、仕方ありませんわ。ここは気持ちを切り替えて、のんびり過ごしましょうか」
ということで「さぁて、とりあえず、羊でも数えるかー」などと、ボケーっと過ごそうとしていたミーアだったのだが……。
「羊が一匹、羊が二匹……」
ボケーっと数え始めてはみたものの……、
「千二百三……。ああ、もう、駄目ですわ……! アベルのことが気になりすぎて、まったくもって集中できませんわ!」
…………本当にそうだろうか?
ともあれ、羊を数えるモードから復旧したミーアは、大きく一つ伸びをする。
直後……、なにやら、首筋に生暖かい空気を感じる。
「……んっ?」
不思議に思い振り返ったミーア。その視界に、大きな鼻先が映り込んだ! むぐむぐ、っと動き、今まさに、くしゃみをしそうになっていたのは、例の荒嵐もどきの馬で……。
――ああ……、この馬って、やっぱり荒嵐の血族なのかしら? よく似てま……ふひゃああ!
逃げようとした直後、ぶええっくしょい! という轟音。咄嗟に身構えるミーアであったが……不思議なことに、風も粘り気のある液体も……、特にミーアにかかることはなかった。
「……はぇ?」
恐る恐る顔を上げたミーアは、見た!
自身と荒嵐もどきとの間にのっそりと立つ一頭の馬の姿を。それは、ミーアを乗せて盗賊から逃げた(……逃げた?)あの馬だった。
あの、油断しきったミーアのような、ぽげーっとした馬だったのだ。
「あら……あなたは、近衛隊の……もしや、あなた、わたくしを守ってくれましたの?」
熟練の護衛騎士よろしく、凛々しくその身を呈して姫を守った馬だったが、相変わらずその表情はぽけーっとしたままだった。
のっそりと荒嵐もどきのほうに顔を向け……、見つめあうことしばし……、ぶふぅっとため息を吐いて荒嵐もどきが去っていくのを見送ってから、ぽげーっとミーアのほうに顔を向けた。
「あなた……ずいぶんと落ち着いておりますのね」
話しかけると、馬は、ぽけーっとした瞳でミーアを見つめてから、ぶぅふっと鼻を鳴らした。それから、のっそりと歩いて行ってしまった。
向かう先は、食事中の林族の馬たちの方向だった。もそもそと草をはむ馬たちに交じり、自身のお腹も満たそうということなのだろう。
「はて……。近衛隊の馬って、どこかにつながれているものではないのかしら……。あんな風に、林族の馬に交じって……、ふふ、実に自由な奴ですわ……。面白いですわね」
ひとしきり笑って、それから、のんびりとその馬を見つめているうちに、ミーアはふと気が付いた。
「ああ、そうか。そうですわ……。わたくしは、なにを悩んでいたのかしら……?」
ミーアは、唐突に思い出したのだ。自分の、本質というものを。
「そうでしたわね。わたくしは、別に帝国の叡智などではなかった……わたくしは、帝国のわがまま姫でしたわ……。別に、正当な理由など必要ありませんでしたわ。気になるから一緒に行く。それだけでいいはずですわ」
アベルのちょっぴり気落ちした顔が気になった。彼に元気を出してほしかった。
それに、慧馬の一族が、本当に救われるのかどうかが、やっぱり少し気になった。
もしも上手くいかなかったら、きっと気分が良くないだろうな、と、ミーアの小心者の心が告げていた。
それならば、行きたいならば……、行けばいい。
行きたいと言えばいいのだ。そこに、正当な理由なんか必要ないのだ。
なぜなら、ミーアは本質的に、自分ファーストなわがまま姫なのだ。
そして、同時に……。
「しかし……、ディオンさんもおりますし、ただ行きたいでは厳しいですわね。となれば、それなりの理由を考える必要があるはず……。ふむ……、とすると……」
ちょっぴり小心者のお姫さまでもあるのだった。
こうして、ミーアは、自身が動く理由をどのようにルードヴィッヒらにプレゼンするか、うんうん、頭を悩ませつつも、幕屋へと取って返した。
とりあえず、自分もついていく、ということを表明しておくためだ。
「やはり、林族の戦士たちを我が隠れ里に入れることは……」
「しかし、それでは、ラフィーナさまの護衛が……」
などと、未だに揉めている様子の彼らは、突如、入ってきたミーアに驚きの目を向ける。
そんな一同の視線を一身に受けつつも、ミーアは傲然と言い放った。
「みなさん、わたくしも火一族の隠れ里に同行させていただきますわ。よろしいかしら?」
帝国の叡智ミーア・ルーナ・ティアムーンの一声によって、方針は決した。
ラフィーナの護衛は、ここまでの道のりと同様に皇女専属近衛隊が務め、林族の者たちは、食糧の輸送という最低限の人数に絞る。
ミーアが無言のうちに示した妥協案に、異を唱える者は一人もいなかった。