第百四十八話 約束……
さて、ミーアたちが水浴びに行っている間、ベルとシュトリナは、集落の中の見学をさせてもらっていた。それは、“ぼうけんがく”でも“たんけんがく”でもなく……、強いて言うならば“たいけんがく”だった。
すなわち……、
「うわぁ、すごい。可愛いですね!」
もこもこした子羊を抱き上げ、思わず歓声を上げるベル。腕の中のちょうどよい温もりが、なんとも言えずに心地よかった。
「すごい。毛がふわふわしてます」
笑みを浮かべながら、頭を撫でる。っと、子羊は耳をぴくぴくと動かして、小さな鳴き声を上げる。
「ふわぁ……」
あまりの可愛さに、ベルは、とろけそうな笑みを浮かべた。
「それはまだ生まれたてだな」
「ふふふ、そうなんですね。すごく、可愛い!」
それからベルはシュトリナに目を向けた。
「ほら、リーナちゃんも、可愛いですよ?」
そう呼びかけると……、
「ええ……そうね」
シュトリナは、なぜだろう、なんだかやたらと離れたところにいた。
「リーナちゃん?」
「うん、大丈夫だよ? ベルちゃん、リーナは見てるだけで……」
ニコニコっと花が揺れるような、可憐な笑みを浮かべるシュトリナに、ベルは違和感を覚える。
「ひょっとして……リーナちゃん、子羊のこと、怖かったりして……?」
「そっ、そんなことないわ。うん、そんなのぜんぜん平気。そんな、子羊が怖いなんてこと、あり得ないわ! ただ……」
と、そこで、シュトリナは、ちょっぴり複雑そうな顔をした。
「ただ……そんな小さいのにリーナが触ったら、死んじゃうんじゃないかって思っただけ……」
「リーナちゃん……」
その言葉に、ベルは表情を曇らせる。
ほとんどの動物にとって、生まれて間もない赤ん坊というのは、力なき存在だ。ベルの抱く子羊も小さくて、か細くて……。だから、ちょっとでも力を入れすぎると、壊れてしまうんじゃないかって……。そんな気持ちになってしまうのは、ベルにも理解できることだった。
まして、幼き日から、毒についての扱いを教え込まれてきたシュトリナである。もしかして、自分の手に毒が染みついてはしないか? それが、子羊に回って、殺してしまうのではないか……? と、そう不安になったとしても、不思議はないのかもしれない。
それに気付いたベルは、優しい笑みを浮かべる。
「大丈夫です、リーナちゃん。リーナちゃんが毒を使うことなんて、もう二度とありません。ミーアお姉さまが、そんなこと、絶対にさせませんから」
それから、ベルは、シュトリナに歩み寄り、手を伸ばす。躊躇うように宙をさ迷っていたシュトリナの手をしっかりと握りしめて……。
「リーナちゃんのこの手は、優しいことをするためにあるんです。だから、この子を抱いても、大丈夫」
シュトリナの目を見つめて、ベルは言った。その真っ直ぐな視線に、シュトリナは、一瞬、困惑したような顔をして……、それから、意を決したように唇をきゅっと噛みしめて、こわごわと手を伸ばす。
ベルが差し出した子羊を胸に抱き……、そのもこもこの毛を撫でる。一撫でするごとに、強張っていた顔が、ほころんできて……。
「……ふわふわ。それに、すごくかわい……!」
直後、ぺろぉり、と、子羊から伸びた舌が……、シュトリナの頬を舐めた。
「きゃっ……」
ミーアには上げられないような、なんとも可愛らしい悲鳴を上げるシュトリナ。それを見て、ベルは思わず吹き出した。
「も、もう、ベルちゃん……笑うなんてひどい」
そんなベルに、頬を膨らませるシュトリナであったが、すぐに自分も笑ってしまった。
「えへへ。なんだか……、楽しいですね、リーナちゃん」
つぶやきながら、ベルは周りを見回した。
のんびりと柵の中で身を寄せ合う羊、ゆったりと落ち着いた足取りで歩く馬の群れ……。
新月地区に身を潜め、日の光からすら身を隠さねばならなかった、暗く沈んだ毎日からは想像もできない世界が、そこに広がっていて……。
「ボク、ここ、好きです」
にっこり笑みを浮かべるベル。それに応えるように、シュトリナも笑みを浮かべる。それは、華やかでも可憐でもない、ただひたすらに純粋な、喜びを湛えた笑みで……。
「うん、リーナも……なんだかすごく幸せ。ね、ベルちゃん、またいつか……大人になったら来ましょう。一緒に、騎馬王国に。約束!」
楽しそうに、弾む声で、そんなことを言った。
「約束……」
ベルは……、一瞬、言葉を飲み込んだ。
約束……、また一緒に来る約束、また会う約束……。
幾度となく交わされるその約束が、ベルは苦手だった。
だって、それは、何度も破られたから……。
また会おうと言ってベルを送り出した人は死んでしまって……、いつか行こうと言った場所に立てたのは、ベル一人だったから……。
いつ夢が終わってしまうかわからない。ならば、そんな約束をすべきじゃないと……、ベルはそう思っていたから。
でも……、
「うん。約束……」
ベルは、小さく頷いた。
それは、少なくはない勇気を振り絞ってのもの。もしかしたら、叶わないかもしれないけど……でも……、
「約束です。リーナちゃん。絶対にもう一度、来ましょう」
ベルは、決意を込めてそう言って、それから無邪気な笑みを浮かべるのだった。
「シュトリナさま、ベルさま、ミーアさまがお帰りになられました」
近衛が呼びに来たのをきっかけに、ベルは立ち上がった。
……この日の約束を二人が忘れることはなかった。