第百四十七話 羊飼う者の末裔
「おお……これは……」
ミーアは、恐る恐る慧馬に歩み寄る。
わーしわしわしっと首筋を撫でられて気持ちよさそうにしている狼を間近で観察するためだ。そう、間近で見るために接近したのだ! …………あと二十歩ぐらいのところまで!
接近したのだ……ミーアなりに。
まぁ、この程度離れたぐらいで、狼がその気になったら、ミーアなどペロリなわけだが……そこはそれ。勇気を振り絞って近づいたミーアは、改めて狼を観察する。ミーアの視力は割といいほうなのだ。
――ふむ……すごい懐いてますわね。前も思いましたけど、狼ってこんな風に手懐けられるものなのかしら?
首を傾げつつ見つめていると……、
「ん? なんだ、興味があるのか?」
慧馬は、ミーアの視線に気付いたのか、わずかに表情を和らげる。
「その子……襲ってきたりしないんですの?」
「ああ。こいつは我の家族なのだ。幼き日より我が育てた」
それから、慧馬は、狼に言った。
「ここの者たちはお前を恐れる。身を隠していろ」
慧馬の言葉に、ウーフゥと鼻を鳴らして答えてから、狼は森の中に去っていった。
「なるほど。大したものですわね。狼というのは、あんなにも言うことを聞くものなんですのね……。んっ?」
その時、ふとミーアは気が付いた。騎馬王国の女性たちの表情が、微妙に強張っていることに……。
――あら? なにかしら……? なんだか、やけに表情が硬いような……? まだ先ほどの狼たちを警戒しているのかしら?
彼女たちは、けれど、狼が去っていったほうを見てはいなかった。二人が警戒の視線を向けているのは慧馬のほうで……。
そのことを、ミーアが不審に思ったところで、
「そろそろ、上がりましょう。また、狼たちが戻ってくるかもしれませんから」
護衛の女性たちが言った。
「え? ああ、そうですわね」
小首を傾げつつも、ミーアは川から上がり、着替えを始めた。
その後は特に何事もなく、森を抜け、林族の集落に帰ることができた。
「しかし、改めて見ると、壮観な光景ですわね」
ミーアの視線の先、草原には無数の幕屋が建てられていた。横から見ると四角、上から見ると円形の白い幕屋。それを見て、ミーアは思う。
「まるで、チーズのようですわね。チーズの幕屋ですわ」
ペルージャンにはケーキのお城があり、騎馬王国にはチーズの幕屋がある……。
ミーアの頭の中の外国は、とても美味しそうなのだ!
そんなチーズの幕屋だが、その規模は村……否、やや大きめの町ほどもあった。無論、帝都の規模には及ばないものの、これだけの人数が移動しながら生活していると思うと、なんとも感銘を受けてしまうミーアである。
けれど、それ以上に驚くのが、彼らの保有する家畜の数だった。
無数に建てられた幕屋群、そこから少し離れた場所には、簡易な木の柵が作られていた。その中に、馬に乗った者たちに追い立てられた羊たちが、ちょこちょこと入っていく。まんまるモコモコの羊が群れを成して動くのは、まるで空に浮かぶ雲のようだった。
その夥しい、まさに雲霞のごとき数を前にしてミーアは……。
――これは、数えがいがありそうですわ。動いてますし、全部数えるのに二、三日はかかりますわね。退屈しのぎにはもってこいですわ。
たくさんのものを見ると、ついつい暇つぶしに数を数えたくなってしまうのは、ミーアの悲しいサガであった。
さらに、家畜は羊だけではなかった。
ほかの柵には立派な角をもつダイオウヤギの姿もあった。こちらの数も極めて多い。
ヤギからもミルクがとれるのかしら? とか、どんな味がするのかしら? などとミーアはドキドキ、ワクワク、ときめきを止められなかった。
「それにしても、馬に羊に、ヤギまで……。騎馬王国の方たちは、動物とともに生きておりますのね」
ティアムーン帝国にも家畜はいるが、動物の群れとともに、移動しながら生活をしている、という者はあまり聞かない。
まして、一族単位、国単位でそのような生活をしているなどというのは、もはやミーアには想像できない世界である。
それは、どうやらラフィーナも同じだったらしく……。
「こんな生き方もあるんだって……そう思わされるわね。彼らは、神聖典にある、羊飼いの一族、その末裔だと聞くわ」
「なるほど。そうなんですのね」
神聖典に描かれる羊飼いというのは、なかなかに重要な役割を持つ人々だ。
彼らは、神が地上に顕現した際、一番にそこに駆け付け、生贄をささげて祀ったことから、大いなる祝福を受けた者たちと書かれている。
騎馬王国では、さらに、羊飼いであった彼らの始祖が、神の使いの女性と婚儀を結び、自分たちの国が生まれた、として、神聖典に自分たちの建国の伝承を関連付けて教えている。神の使いである女性が馬に乗っていたところから、騎馬王国の馬を重視する伝統は始まっていた。
「そして……、そんな羊飼いたちの天敵が狼よ」
不意に、ラフィーナの口調が真剣みを帯びた。
「え……?」
聞き返そうとしたミーアは、けれど、その機会を失う。
「ミーアさま、林族の族長殿がお待ちです」
やってきたルードヴィッヒは、一礼すると、そう告げた。
「ええ、わかりましたわ。行きましょう」
ミーアは、軽く慧馬のほうに視線を送った。
慧馬は、むっつり黙り込んだまま、小さく頷いた。