第百四十六話 狼と少女
林族の駐留地に着いて早々に、ミーアたちは、近くの川に水浴びに行くことになった。
馬にくしゃみを吹っ掛けられたミーアへの気遣いである。
「こちらです、ミーア姫殿下」
案内してくれたのは、護衛も兼ねた林族の女性戦士、二名だった。腰に佩いた曲刀も凛々しい彼女たちであったが、帝国の姫ミーアを前に緊張を隠せない様子だった。
「ここは、一日の作業を終えた女たちが、水浴びに使う場所で……」
などと、連れてきてくれたのは森の中に流れる穏やかな川だった。
川幅はそれなりにあるものの、深さはそれほどでもなく……。手ですくった水はいささか冷たかったものの、日差しのある時間であれば、むしろ心地よいぐらいだった。
「素敵な場所ですわね。うふふ、感謝いたしますわ。さすがに馬にくしゃみをかけられたままでは、落ち着きませんでしたし……」
「いえ。申し訳ありませんでした。我々の馬が……、これで許してもらえるとは思えませんが……」
「ふふ、全然気にしておりませんわ。慣れておりますもの。それに、騎馬王国ではああいったことも日常茶飯事なのでしょう?」
実になんとも度量の深い笑みを浮かべるミーア。それに対して、
「え……? あ……えーと、あ、はい。そうです。私も割とよくくしゃみをかけられます」
微妙にひきつった笑みを浮かべる騎馬王国の女性であった。
若干、それが気にならなくはなかったが、すぐに「まぁ、いいですわ」と思い直す。
なにしろ、ミーアは馬龍との約束を忘れてはいなかったから。
――極上ミルクが後で味わえるとなれば……。それにバターも……きっと素晴らしい出会いがわたくしを待っておりますわ!
それを思えば、自然に笑みもこぼれようというものである。
ちなみに、水浴びに同行したのはアンヌとラフィーナとラフィーナの従者の女性。それと、もう一人……。
「良き場所だ。戦いの汗を流すのにはちょうどいい」
なぜか、偉そうに腕組みする慧馬だった。
「我は、騎馬王国の者に捕らわれるなどという屈辱に甘んじたりはしない。我は、帝国の叡智、我が友ミーア姫の説得に応じ、捕囚の身に甘んじて、大人しく同行しているのだ。であれば、水浴びにも同行するが当然のこと……」
などと……ぶつくさ言っていたが、どうやら、ミーアがいないところでディオンと一緒にいるのが怖いらしい。
馬車に乗せられて運ばれている時にも、見張りがディオンだったので、たいそう恐ろしかったらしく……馬車から降りると、すぐにミーアのそばにやってきていた。
まぁ、ディオンが怖いのは、ミーアもしっかりと理解しているので、同情して連れてきたのだが……問題は……、
「……気軽にミーアさんをお友だち扱いするだなんて……」
なーんてことをつぶやいていたラフィーナのほうだった。ぷっくーっと頬を膨らますラフィーナを見て、
「あ、あの、ラフィーナさまもよろしければご一緒にどうかしら? ひさしぶりに、お友だち同士で、水浴びというのは……」
慌てて誘うミーアである。
気遣いの人、ミーアの配慮が冴え渡る。こうして、ミーアの女帝としての気配りと、人心掌握術に磨きがかけられていくのだ。
女帝としての修行なのである。
さて、そんなこんなでチャチャッと水浴着に着替えたミーアは、さっさと川辺に向かった。
ちょうどよい具合の岩に腰を下ろすと、騎馬王国の女性が恐々といった様子で近づいてきた。
「あの、申し訳ありません。ミーア姫殿下。私たちが洗髪に使っているものは、これなのですが……」
そう言って彼女が差し出してきたのは……、なんと、いつもミーアが使っている洗髪薬だった!
それを見たミーアは、思わず微笑みを浮かべる。
――ほう! 騎馬王国にも浸透しているなんて……。さすがはアベル、良い品を知っておりますわね。
などと、思っていたものだから、
「失礼かもしれませんが、でも、これ、とってもいい品で、だから、えっと……」
そんな言葉に、思わず首を傾げた。
「あら? 失礼だなんて、そんなことまったくありませんわ。上等な品ですし、わたくしも愛用しておりますわよ?」
「え……?」
驚愕の表情を浮かべる彼女に、ミーアは微笑みかける。
「ありがとう。これならば、なんの文句もございませんわ」
それから、ミーアはアンヌのほうを見た。アンヌは、心得た、と深々と頷き、それから、思い切り腕まくりして気合十分、漲らせながら、ミーアの髪を洗い始めた。
「ミーアさま、少しだけ、御髪が痛んでいるようです」
「ああ、最近はこうしてゆっくり、あなたにお手入れしていただくことがありませんでしたものね」
それから、ミーアはアンヌのほうを見て微笑んだ。
「いつもありがとう、アンヌ。頼りにしておりますわ」
「もったいないお言葉です。ミーアさま」
などと、アンヌとイチャイチャしてから……、
「さて……では、そろそろ……」
などと、ミーアが立ち上がる。多少冷たいが、川の水に浸かろうというのだ。
その時だった。突如、背後の茂みが、がさ、がささ、っと揺れた!
すわ覗き魔か? はたまた、自身の命を狙う不届き者か? と警戒する面々であったが……現れたのは、予想だにしないものだった。
鬱蒼とした茂みをかき分けて、現れたもの、最初に見えたのは黒い鼻先だった。それが、辺りを確認するようにヒクついた後……、のっそりと姿を現したのは……、
「狼っ!? こんなところにっ!?」
騎馬王国の女性が、小さく悲鳴を上げる。
彼らの目の前に現れたのは、一匹の黒い狼だった。
曲刀を引き抜き構える戦士たち。けれど、すぐにその顔に焦りの色が浮かぶ。
なぜなら、最初の一匹に続き、二匹目、三匹目が現れたからだ。
「お客人、お逃げください。ここは、我々が……」
ミーアたちを背中にかばいながら、臨戦態勢に入る彼女たちだったが……。
「……必要ない」
答えたのはお客人……ではない慧馬だった。彼女は勇ましく笑みを浮かべた。
「あの程度の狼……物の数ではない」
そうして、彼女は指をくわえると、ひぃいいいんっと指笛を鳴らした。
「来い!」
っと鋭い叫び声をあげる。がさ、がささ、っと遠くのほうから、大地を踏みしめる音が近づいてきて……、ソレが現れた。
さながら黒い疾風のごとく、狼たちの背後に現れたもの……、それは、漆黒の毛並みを持つ巨大な狼だった!
「なっ、あれ……は……」
騎馬王国の者たちは、言葉を失った。
それはミーアも同じだった。なぜなら、ミーアは、見覚えがあったからだ。
――あの狼は……、以前、襲われたのと同じやつなんじゃ……。
かつて、狼使いが連れていた狼に、その狼はそっくりで……。
背筋に、つめたぁい汗を流すミーアをしり目に、巨大な狼は、先にいた三匹の狼たちを睨みつける。瞬間、ぴょーんっと飛び上がる狼たち。直後、尻尾を垂らして、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
その背中に、野太い吠え声を投げかけてから、巨大な狼は、ミーアたちのほうを見た。
「ふふん、我が火の一族の戦狼の相手は、ただの野生の狼には重かろう」
そうして、慧馬は嬉しそうに狼の首筋を撫でた。
「まさか、その狼を使って逃げようというんじゃ……」
震える声で問う騎馬王国の戦士に、慧馬はニヤリと攻撃的な笑みを浮かべた。
「そのつもりがあれば、とっくにやっている。それに、残念ながらディオン・アライアを倒すことはできないだろう」
それから、慧馬は堂々と胸を張り、
「なにより、我は戦士だ。一度、捕らえられた以上、見苦しい真似はしない」
キリッとした顔で、そんなことを言うのだった。