第百三十七話 ミーア+馬ミーア=???
「うわぁ……」
馬の背で、ラフィーナが歓声を上げた。
「意外と高いのね、ミーアさん。それに、不思議な景色……。学園の星見の塔から見下ろすのとも少し違う、なんとも言えない高さね」
前に乗るラフィーナが振り返り、嬉しそうに笑みを浮かべる。それを見たミーアは首を傾げる。
――妙ですわね、なぜ、こんなに余裕があるんですの?
予想よりまったく落ち着いているラフィーナに首を傾げるばかりのミーアである。
以前に自分が乗った時は、もっと余裕がなかったのに……。
怖がるラフィーナに乗馬の素晴らしさをドヤ顔で語りつつ、ビシバシ乗り方を教え込もう、というミーアのストイックな乗馬計画は早くも瓦解しかけていた。
――ふむ、どうしたものかしら……? 計画の立て直しが必要ですわ。ここはやはり……。
「やあ、二人ともやっているね」
と、そこで、爽やかな声が響いた。そちらに目を向けると、そこには、アベルが立っていた。乗馬用の服に着替えたアベルに、ミーアは思わず、ほわぁ、っとため息を吐く。
――ここに出てきたということは、一緒に、乗馬を楽しもうということかしら……? アベルと遠乗り……。
ミーアは、アベルのキリっとした格好を見て……、
――うんっ! 楽しみですわ!
ストイックな乗馬計画は粉みじんに吹き飛んだ。
「もしかして、お手伝いに来てくれたんですの?」
「まあね。ミーア一人でも大丈夫だとは思ったんだけど、ボクも少し体を動かしたくってね」
それからアベルは、ラフィーナのほうに目を向けて小さく首を傾げた。
「失礼ながら、ラフィーナさまは、馬に乗るのははじめてですか?」
「ええ。移動はもっぱら馬車だから……」
「なるほど。それならば、お姫さま方の馬を引く栄誉に与らせてもらおうかな」
アベルはそう言って、ミーアのほうに目を向けた。
「そういうことで構わないだろうか?」
「なんだか、アベルにそんなことをしてもらうのは申し訳ない気がしますけど……」
「ははは。気にすることないさ。ボクもミーアのそばにいたいからね」
爽やかにウインクするアベルに、ほわぁっとため息を吐くミーアである。
そうして、のんびりとした乗馬体験が始まった。
ぱから、ぽこら、とのどかな足音を立てながら、常足で馬が歩く。
近衛兵の言っていた通り、この馬の気質は穏やからしい。揺れもほとんど気にならないし、暴れる様子もまるでなかった。
――ふむ、実に従順ですわ。これならば、ラフィーナさまも怖がらずに楽しんでくれるんじゃないかしら?
などと思っていたミーアであったが……。
「ねぇ、ミーアさん。ミーアさんが馬を走らせる時は、どんな感じで走らせているの?」
キラッキラした瞳で、ラフィーナが聞いてきた。なんだか、こう……、はじめておもちゃをもらった子どもみたいに、ものすごーく楽しそうだった。
ちなみに……、基本的にミーアはお調子者である。なので、自分がしたことが相手に喜んでもらえたと思うと、ついつい張り切ってしまうところがあり……。
「そうですわね……普段は……、ふむ」
ミーアは、彼女たちを守るためにかたわらに控えていた近衛兵に尋ねてみる。
「ねぇ、この先は、ずっと平原が続いているのかしら? いきなり崖になっていたりは?」
「このまま、平らな地形が続いているようですね。崖などの危険な地形はないそうですよ」
「そう……。それなら、ラフィーナさま、少し、馬を走らせてみましょうか?」
「え……でも」
一瞬、躊躇う様子を見せたラフィーナに、ミーアは笑みを浮かべた。
「馬の醍醐味はやはり走らせた時ですわ。馬と一体になり、まるで風のような気分が味わえるのは乗馬ならではですわ。ぜひ、ラフィーナさまにも体験していただきたいですわ」
それから、ミーアはアベルに目を向けた。
すると、アベルもまた、肩をすくめて、
「わかった。すぐに馬を用意して追いかけるよ」
「決まりですわね! それなら、行きますよ」
「ちょっ、ミーア姫殿下、そんないきなり……」
慌てる近衛兵に悪戯っぽい笑みを向け、
「平気ですわ。そんな遠くに行きませんから。さ、ラフィーナさま、参りましょうか」
高らかに、そう言った。
この時……、ミーアは、完全に調子に乗っていた。
馬術大会の優勝と、狼使いから逃げ切ったことが、彼女の気を大きくしていたのだ。
そうして、ミーアは馬に指示を出した。
自らの足元に落とし穴が開いていることにも気付かずに……。
ミーアの指示に従って、馬が駆ける。ぐんぐんっと速さが上がるにつれて、吹き付ける風が強くなった。
「わぁっ……」
清らかな髪を風に躍らせながら、ラフィーナが歓声を上げる。それを聞いて、ミーアもご満悦である。
「ふふふ。このぐらいで満足してもらっては困りますわ。まだまだ、速くなりますわよ? はいよー! シルバームーン!」
ついついご機嫌な声をあげてしまうミーアである。
……ちなみに、ミーアの乗る馬の名はシルバームーンではない。
そうして、草原を駆け回ることしばし。気付いた時には、二人は馬車からかなり離れた場所まできていた。遠くに、馬車が豆粒ぐらいの大きさに見える。
――ふむ、このあたりで、一度引き返したほうがいいかしら……?
そう思い、馬を止め、元来た方向へと馬首を翻した、まさにその時だった。
「あら……、ミーアさん、あれはなにかしら?」
ラフィーナが小さく声を上げた。
「あれ……? はて……」
ミーアは、ラフィーナが指差すほうに目を向けて…………、しばし、黙って考えて……、直後、青くなった!
平原の雑草を蹴り上げ、荒々しい声を上げつつ、馬車のほうへと突っ込んでいく一団。それに、ミーアは見覚えがあった!
「あれは、まさか、騎馬盗賊団っ!?」
行きがけに遭遇した盗賊団が、再び襲ってきたのだ!
「ミーアさん……」
不安そうに振り返るラフィーナを落ち着けるように、ゆっくりと頷き、
「だっ、大丈夫ですわ。馬車にはディオンさんもおりますし、皇女専属近衛隊は腕利き揃い。あの程度の盗賊団、すぐに追い返して御覧にいれますわ」
一瞬、盗賊団を見て慌てかけたミーアであったが、すぐに平静を取り戻す。
なにしろ、馬車にはあのディオン・アライアがいるのだ。
行きがけも大丈夫だったし、きっと今回も……などと思っていたミーアであるのだが……、すぐに自らの失態に気付かされる。馬車へと向かっていた盗賊団は、突如、足を止め……こちらに向かってきたのだ!
――あっ、ヤバいですわ……。見つかってますわ!
変に刺激しなきゃ大丈夫だろう、と思っていたミーアだったから、これには慌てる。
半ばパニックになりつつ、ミーアは馬首を翻した。盗賊から遠ざかる、その方向は……、馬車から離れていく方向でもあった。
「くっ、ラフィーナさま、しっかりつかまっていてくださいまし!」
言いつつ、ミーアは、馬に指示を送る。
――大丈夫ですわ。逃げ切れますわ!
ミーアは、ある程度の自信を持っていた。
なにしろ、自分はセントノエルの馬術大会でルヴィに勝ったのだ。その上、あの狼使いからだって逃げ切ったのだ。
ならば、凡百の盗賊程度、振り切るのは容易なはず。なにより、ミーアの心のよりどころは……。
――にっ、逃げ続けていれば、いずれディオンさんが来てくれますわ。あの男なら、あの程度の盗賊団、一人でだって退けることができますわ! そして、追われているとはいえ、まだまだこれだけ離れてますし、逃げ続けるだけならば造作もないことのはず!
などと確信を持っているミーアだったが、一つだけ失念していることがあった。
それは……、荒嵐は…………、ミーアが思っている以上に良い馬だということだ!
「いけ! 敵を振り切って味方のところまで戻りますわよ。はいよー!」
勇ましく馬に指示を出す。そうすれば、いつだって馬は応えてくれて……いつだってミーアは風になれるのだ。
疾風のように、敵を振り切って逃げることができる……、そう確信を持っていたミーアだったが……。
「……あら?」
ふと、首を傾げる。
いつまでたっても……風になれない? 馬の速さが、まるで上がらないのだ!
――へっ、変ですわ。ぜんっぜん速くないですわ!
見る間に、後方の盗賊団が迫ってくる。みな顔に覆面をし、その表情がうかがい知れないのが、なんとも不気味だった。
――な、なぜ、こんなに遅いんですの、この馬……。
ミーアはラフィーナの肩越しに馬の顔を覗き込んで……、驚愕する!
――はっ、覇気がまるでありませんわっ!
ぼんやーりと前を見つめる目、緩んだ口元、ぬぼぉう、とした顔に、緊張感はまるでなく。さながら、葉っぱを数えて暇つぶしをしているミーアのような顔をしていたのだ!
そう、ミーアの乗馬術「背浮きの極意」は、馬が優秀であることが大前提。馬が百の力を持つ時、ミーアがマイナス五十の乗馬をしてその足を引っ張ってはいけないからと、自分を完全に消すのが、その本質だ。
されど、この馬は、馬版ミーアのようなこの馬は……、もともとの力があまりない。やる気のないミーアが二人集まったところで、なにも生まれないように、この馬には背浮きの極意は使えない。
ミーアは知らぬ間に、自分自身が頑張らざるを得ない状況に追い込まれていたのだ。
「くっ、くぅっ、しっ、仕方ありませんわ」
それから、ミーアは前に乗るラフィーナに声をかける。
「ラフィーナさま……」
身を低くし、馬の首にしがみつくような体勢で乗っていたラフィーナは、ピクリと肩を震わせた。そんなラフィーナに静かな声で、ミーアは言った。
「決して手を放しませんように、しっかりと掴まっていてくださいましね」
決然と言う。
――今、ラフィーナさまに落ちられたら、大変なことですわ!
ミーアは、それを想像して震える。
この状況で自分だけが助かろうものならば、下手をするとミーアが助かるためにラフィーナを蹴落としたと疑いをかけられるかもしれない。だらりだらぁり、とミーアの背中に冷や汗が伝う。
それに、ミーアの脳裏には、先ほどの嬉しそうなラフィーナの顔が思い浮かんでいた。
それを思い出すたびに、小心者の心臓が震えた。
――くぅっ、前のように無価値なものを見るような目をしていてくれれば、わたくしのきわめて繊細な良心も、少しは痛まずに済みますのに。
自分が助かるためならば、他者を切り捨てることもやむなしという暴君の資質は、ミーアには圧倒的に欠けているものなのだ。
となれば……、ミーアはなにがなんでもラフィーナとともに助からなければならない。
だから、ベテランであるミーアが、全力でラフィーナが落っこちないようにかばってやらなければならないところなのだが……。
――今は余裕がありませんわ。こちらもいっぱいいっぱいですもの。
この馬をなんとかやる気にさせつつ、きちんと逃走経路を確保しなければ……。
助けが来るまで逃げ切ることは不可能。であれば、なんとかして、自力で馬車まで戻らなければならない。
ということで、ラフィーナにも、しっかりと落ちないように馬にしがみついていてもらわなければならないのだ。
「無事に、みなのもとへと帰りますわよ!」
「ミーアさん……」
ラフィーナの声は、かすかに震えていた。