第百三十四話 蛇の巫女姫は踊る
それは、歴史の流れに忘れ去られた場所。
レムノ王国とヴェールガ公国の間に位置する峻厳なる山、その麓。
深き樹海の奥深くに、小さな廃城が建っていた。否、それは城と呼べるほど立派な代物ではなかった。それは古き民の手によって築かれた、石造りの遺跡。敗残者たちが逃れの地にて、再起をかけて築き、されど、ただの一度も戦に使われることのなかった儚き夢の残滓。
本来の持ち主たちも、歴史の中で死に絶え……主なき廃墟となっていた古城は、今や蛇の拠点の一つとなっていた。
その小さき城の中心、玉座の間で、一人の女性が踊っていた。年の頃は二十代の半ばといったところだろうか。艶やかな漆黒の髪を躍らせながら、一心不乱に舞い踊る。規則性に欠ける動き、どんなダンスにもないようなステップは、どこか不穏で、けれど、なんとも言えない美しさもあって……。そのアンバランスさが禍々しさを感じさせるものであった。
それは、まさに秩序の破壊者、混沌の蛇に相応しき舞であった……のだが……。
「なにをしている?」
部屋に入ってきた男、狼使いは、開口一番、怪訝そうな口調で言った。
「演舞よ。我らの邪神に捧げる演舞。どう? それっぽいでしょう?」
女性は、なんの未練もなく舞を止め、つまらなそうに額に浮いた汗を拭う。
「邪神に仕える蛇の巫女姫らしさを考えて踊ってみたんだけど……どうだった?」
そうして、彼女……蛇の巫女姫は艶やかな笑みを浮かべた。
対して、狼使いは表情一つ動かさずに、
「我々が邪神に仕える使徒であるというのは、初耳だ」
「それは正確ではないわ。我々は邪神の使徒であり、使徒ではない。必要があれば邪神の使徒として秩序を破壊し、必要があれば無神論者として秩序を破壊する。何者にだってなりましょう。我らを虐げるくそったれな秩序を破壊できるならば、なににだってなれる。それが、我ら蛇の強みでしょう」
狼使いは知っている。
蛇の信者の何割かが、邪神の信奉者であること。されど、目の前の巫女姫は、決して邪神などというものを信じてはいないこと。
信じていないがゆえに、彼女は、信者の求める理想的な巫女として振る舞うことができるし、冷静なリーダーとして、効率的に秩序を破壊することができる。
彼女は、破滅思考を持った名演者なのだ。
「それで、なんの御用かしら?」
「火燻狼から知らせが届いた。こちらには戻らず、身を潜めると」
「あはは。ああ、それは心配ないでしょう。彼は、蛇導士ですもの。きっと行く先々で秩序を破壊し、蛇として立派に振る舞うでしょう」
蛇の巫女姫は、艶やかな笑みを浮かべる。
「しかし、今、単独で動くのは危険ではないか? 聖女ラフィーナ……、中央正教会の手の者により、囚われてしまう危険が高いように思うが……」
「水をすくうことで川の流れは変えることができない。それと同じこと。彼一人が失敗したところで、大した影響はないでしょうし、彼が成功すれば、他の者の失敗を補う流れの一部となりましょう。どちらでも、大した影響はないのです」
巫女姫はそう言ってから、とろけそうな笑みを浮かべる。
「でも、彼がサンクランドを出たということは、きちんと仕掛けをしたのでしょうね……。だとすると……、そうね……しばらくは待ちましょうか。それで、少ししたら、エシャール王子が毒を持っていると新しく噂を流しましょうか。エシャール王子が毒を使ったことを隠蔽していたら、サンクランド王家の信用に傷をつけることができるし、もしもまだ使っていないのであれば、疑心暗鬼に陥れることができるかもしれない」
新しい悪戯を企むように気安げに、巫女姫は言った。
「危険ではないか? あまりサンクランドに深入りしては……」
「心配はいりません。たとえ我らが滅せられても、蛇は死にませんから。燻狼や、ほかの蛇導士がいるもの。その時々に相応しき者が巫女として立ち、蛇を率いていくでしょう。いいえ、巫女姫など、そのようなもの、そもそもいなくても構わないのです。必要であれば、巫女が立ち、姫が立ち、王が立つ。蛇とはそういうものでしょう?」
「悲願を見届けなくても構わないと?」
尋ねる狼使いに、巫女姫は困ったような笑みを浮かべた。
「殿方は、勲しとしてのわかりやすい結果を求めるものですものね。あなたの気持ちは理解できるけれど……、私にはどうでもいいこと。だって、いずれすべてが壊れてしまうことは、決まっているのだから」
それは、熱の感じられない口調だった。
淡々と……、ただ事実を告げるような乾いた口調で、巫女姫は言う。
「蛇の強さを、あなたはなんだと思う?」
「さあな……。人の心を操るという言葉か?」
「それは不正解だし、正確でもないわ」
静かな……まるで真実を見通すような、澄んだ瞳で彼女は狼使いを見つめる。
「蛇の強みは殺せないこと……。排除することができないこと。今日でなければ明日、明日でなければ明後日。悠久の時の中で世界を蝕み、破壊する。この世界に「人」という存在が居続ける限り、蛇が消えることはない。そうなっているの。だから、我らが負けることはない」
胸の前で手を組み合わせ、そっと瞳を閉じる。
「たとえ、帝国の叡智だとしても、それは叶えることのできないこと」
それから、巫女姫は、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それこそ、あなたたちの大切な馬だけの世界になったら、蛇も消えるのだけどね。蛇は、永久に変わることのできない人に対する呪いだから」
そこで、ふと思いついたというように、巫女姫は小首を傾げた。
「ああ、そういえば、あなたの妹君は、また略奪に出かけたのかしら?」
「食料が不足しては部族の者が飢えてしまうからな。サンクランド国境付近で動いているらしいが……」
「そう。今度こちらにも顔を出すように言っておいてちょうだい。また一緒にお茶が飲みたいから」
彼女は、まるでお姫さまのような、上品な笑みを浮かべるのだった。