第百三十三話 いざ、騎馬王国へ!
ミーアたちは、宿の食堂で朝食をとることになった。
ちなみに、訪ねてきたアベルと、シオンたちを従えて戻ってきたベルも一緒である。
朝食の時間までには帰ってくるだろう、と予想していたミーアであったが、まさか、パンが焼きあがったタイミングで帰ってくるとは思っていなかった。
我が孫ながら、その鼻の良さには脱帽のミーアである。
ところで、基本的にミーアは健啖家である。朝となく、昼となく、夜となく……。時間を選ばずよく食べる人である。
そして、そのことを、あらかじめラフィーナから聞かされていたからだろうか? 宿の朝食は、なかなかの量があった。
焼きたてのパンがモリモリ積まれたお皿を見て……、それから、脇に置かれたジャムの瓶を見て、ミーアは、うむ、と満足げに頷いた。
「ジャムも絶品だけど、バターが素晴らしいのよ」
ジャムにパンを(美味しそうなジャム”に”パン”を”)つけて食べようとしていたミーアに、ラフィーナが話しかける。
「ほう……、なるほど」
ミーアは一瞬、躊躇う。大変美味しそうなジャムを名残惜しそうに見て、それでも、隣に座るラフィーナのおススメに従い、パンにバターのみを塗る。
まだ、熱々のパンの上にバターを乗せると、じゅわあ、っと溶けて、なんとも言えない甘い匂いが立ち上った。
「おお……これは……」
期待に胸を膨らませながら、ミーアはパンをかじった。
カリッと気持ちの良い音を立てるパン。それを口に含んだ瞬間、
「ふむっ!」
濃厚な乳の香り、クリーミーに口の中に広がるのは、こってりとした甘みだった。
パリ、カリッとパンを噛み締めるたび、じゅ、じゅわ……っと口に広がるバターに、ミーアは思わず唸った。
「これは…………お見事ですわ」
スルスルッとパンを一気飲みしてから、ミーアは宿屋の主人を振り返った。
「さすがですわね。ご主人。パンの焼き加減も素晴らしいですけれど、それ以上にバターですわ。これほどのバターがあるとは……」
「恐れ入ります。それは、羊の乳で作ったバターでございます」
「まぁ、羊の?」
「はい。騎馬王国から仕入れたものでして。彼らの羊の乳は非常に上質で、牛の乳よりも味が濃くなるのです」
「なんと……、それは知りませんでしたわ」
感心のため息を漏らしつつ、新たなパンを手に取ってバターをたっぷり塗る。それから、ミーアはアベルのほうに目を向けた。
「それで、アベル、朝早くにどうしましたの?」
「ああ。せっかくだから君たちと一緒に帰ろうと思ってね。といってもボクは途中までなんだけど」
「途中まで? はて……。アベルもセントノエルに帰るのではありませんの?」
「実は、少し用があってね。馬龍先輩のところに行こうと思っているんだ」
「あら? 馬龍先輩のところ……騎馬王国ですわね?」
ミーアは小さく首を傾げる。カリッ、サク。
「そういえば、レムノ王国と騎馬王国とは、親交があるという話だったかしら?」
「そうなんだ。我が国では、軍事教練に力を入れているからね。軍馬の扱い方なんかの指導を受けるために、何人か指導員を派遣してもらったりしているんだ。もっとも、馬を戦争の道具として扱うので、彼らもあまり気乗りしない様子ではあるんだけど……」
「ああ。なるほど。確かにそうでしょうね」
それは、ミーアにもなんとなく理解できることだった。カリッ、サクサク。
「それで、昔から馬龍先輩とは面識があったんだけど……。少し前に手紙をもらってね。相談したいことがあるから、と……」
「ふむ……なるほど」
ミーアは、唸りつつ、地図を頭に思い描いてみた。カリッ、ジュワ……。
騎馬王国には、国境という概念があまりない。
十二の部族によって構成されるかの国であるが、そのうち、十の部族は、それぞれの財産である羊を連れて、サンクランドの南方、ヴェールガ公国とレムノ王国とのちょうど境に広がる広大な草原地帯を、移動しながら生活している。なので、そのあたりが国土といえば国土なのだが……、その境目は極めて曖昧なのだ。
そして残る二つの部族は町守りと呼ばれ、サンクランド寄りの北都と、レムノ王国寄りの南都とに定住し、町を守っている。
数年に一度、どちらかの都で部族会議が行われ、草原の様子を鑑みながら、各部族の移動の計画が話し合われるのである。
ミーアの構想では、もしもサンクランドに攻められた際には、レムノ王国を味方につけ、挟撃することにしていたわけだが、両国の間にある騎馬王国の存在も、当然考慮に入れていた。
精強な騎馬部隊を誇る騎馬王国とは、ぜひとも友誼を結んでおきたいところだったのだが……。
――まぁ、今となってはそれも詮無きことですわね。今のところサンクランドが攻めてくる様子もありませんし。
ともあれ、アベルの話はよく分かった。
なるほど、たしかにセントノエルに帰るのであれば、途中で騎馬王国に立ち寄ることもできるだろう。
「ふむ……騎馬王国……」
と、そこで、ミーアは手の中のパンを見た。不思議なことに……、持っていたはずのパンが消えていた!
「……あら?」
きょっとーんと首を傾げるミーア。
――変ですわね。いったい、どこに……?
「失礼いたします。ミーアさま……」
っと、音もなく近づいてきたアンヌが、すっす、とミーアの口元をぬぐった。そこには……、パンの欠片がついていた!
「ふむ……」
次いで、ミーアは、テーブルの上に目をやった。ホカホカの焼き立てのパンに手を伸ばし……シュシュっと素早くバターを塗る。
それから、パリリッジュワワと味わって……、
――ふむ……。やはり美味しいですわ。せっかく騎馬王国に行くのであれば、このバターの話を仕入れるというのも、いいのではないかしら?
ルードヴィッヒを同行させて、帝国とも取引してもらえるように話をつけることができれば……、毎朝、この味に出会えるかも!
などと皮算用しつつ、ミーアはシオンのほうに目を向けた。
「エメラルダさんとティオーナさんとも打ち合わせておく必要がありますわね……。いや、エメラルダさんは、エシャール殿下のこともございますし、どこかに寄っていくのは無理かしら……あ、そういえば、シオン、ティオーナさんは、どうしましたの? 昨日は、王城に泊まると、キースウッドさんから連絡がありましたけれど……」
「実は、そのことでミーアに謝らなければならないことが起きてね」
「あら? なんですの?」
「ティオーナ嬢なんだが、どうやら、体調を崩してしまったらしいんだ。軽い風邪だと思うんだが……。少し体が冷えたらしい」
「まぁ? ティオーナさんが? ……はて? でも、なぜ、シオンが謝りますの?」
ミーア、鋭く切り込んでいく。
「昨夜、女子会に誘おうと思って探したら、どこにもおりませんでしたけど、あなたのところにおりましたの?」
「ん? ああ、まぁ……。父が、お礼がしたいと引き留めてしまってね」
「なるほど、そうだったんですのね」
なんだか、ちょっぴり慌て気味のシオンに首を傾げるミーアである。
「まぁ、ともかくそのせいで風邪をひいてしまったらしくてね。これは、お礼とお詫びを兼ねて、もう少しゆっくりして、体を完全に治してからお帰りいただくのがいいんじゃないかと思ったんだ。ミーアたちに留まってもらうのも申し訳ないから、我が国の責任でセントノエルまで送り届けようと思うんだが……」
「ふむ……」
ティオーナの体調が優れないということであれば、無理に騎馬王国に連れていくことはできない。かといって、アベルが馬龍に呼びだされたというのであれば、サンクランドでのんびりしているわけにもいかない。
そもそも……、と、そこで、ミーアはベルのほうに視線を送った。
のんきにパンを頬張っている孫娘……、ルードヴィッヒに一応の勉強を任せてはいるのだが……、サンクランドに来て以来、あまり勉強していないようにも見える。
――ベルがテストで苦労するのは目に見えておりますわ。これ以上、サンクランドにいるのは避けるべきですわね。
そうして、ミーアは小さく頷いた。
「では、よろしくお願いいたしますわ。くれぐれも、わたくしの大切なお友だちを丁重に扱ってくださいませね」
「ああ、心得ているよ」
頷くシオン。それで、話が終わったと思ったのか、今度は横からラフィーナが話しかけてきた。
「騎馬王国に寄っていくのであれば、私もご一緒するわ」
「あら? ラフィーナさまも?」
「エイブラム陛下と例の話をして、その報告をしないとと思っていたの。例の蛇の手の者のことと合わせて、できれば直接話がしたいわ」
「なるほど、それは大所帯になりそうですわね……。あ、それなら、せっかくですし、乗馬の練習をしながら帰りましょうか?」
ミーアは、ふと思いついた、という感じで、手を叩いた。
「え……? それは、でも……」
途端に、ラフィーナが、ちょっぴり戸惑うような顔をした。その様子を見て、ミーアは、微笑ましい気持ちになる。
――ラフィーナさま、馬に乗るのが怖いんですのね。ふふふ、案外、可愛いところがありますわ。
ここは乗馬の先輩として安心させてやらねば、と、ミーアはどんと胸を叩いた。
「ふふふ、大丈夫ですわ。わたくしが、きっちりと教えて差し上げますわ」
「……うん。ミーアさんがそこまで言ってくれるなら……楽しみにしておくわ」
ラフィーナは、もじもじして……、それから、ちょっぴり恥ずかしそうにはにかんだ。




