第百二十八話 兄と弟の船出
サンクランド王国での事件から数日後。
エシャール王子の聖ミーア学園への留学が発表された。
表向きの理由は、ミーアネットへの協力の下準備のためである。
ミーアネットという国を超えた枠組み、その理念が「大陸中の民を飢餓から救うこと」であることを知ったエイブラム王は、この組織を重視。サンクランドも積極的に協力すべきとの方針を出した。
王は、ミーアネットへの協力を示すため、第二王子エシャールをティアムーン帝国に留学させ、ミーアネットの仕事に携わらせようと考えたのだという。
当初、その発表は、エシャールを引き立てようとしていた保守派貴族たちに困惑をもって受け入れられたが、王の決意は固く、覆すことはできなかった。
また、グリーンムーン公爵令嬢、エメラルダとの婚約は先延ばしされることとなり、そのことに不満の声も上がったが、ランプロン伯や宰相たちによって押さえ込まれた。
こうして、なにかに追われるように、エシャールはグリーンムーン家の馬車で帝国に向かうこととなった。
馬車の中、サンクランド王国を名残惜しそうに振り返るエシャール。そんな彼に、エメラルダは優しく話しかける。
「また、そのうち、すぐにでもサンクランドにお連れいたしますわ。一時は寂しいでしょうけれど、あまり思いつめる必要はありませんわ」
これぐらいの年齢の男の子であれば、さぞや、両親が恋しかろうと思ってのことであったが……、エシャールは、小さく首を振った。
「いえ……。御心配には及びません。サンクランドにも、帰りません。僕にはやることがありますから」
固い表情で、エシャールは言った。
「……僕は、償わなければならないですから……」
そうして、エシャールはひどく大人びた瞳で、見つめてきた。
「そのために、お世話になります。エメラルダさま」
それが、エメラルダには……ひどく痛ましいもののように見えてしまって……。
だから、
「違いますわ。エシャール殿下、そうではありませんわ」
はっきりとした口調で、否定して見せる。大きく首を振って、エシャールの言葉を否定する。
「殿下、あなたは……、すでに許されておりますわ」
「え……?」
きょとん、と首を傾げる幼き王子に、エメラルダは優しく微笑みかける。
「そんな風に思いつめずとも、あなたが裁かれることはすでにございませんわ。だって、そうでしょう? 誰があなたを処刑にできますか? 今から、あなたを連れ戻し、サンクランドの民の前で裁くなど……、そのようなこと、この私が許しませんわ。それ以上に、我が親友ミーアさまが、そんなことを許すはずがない」
言いつつ、エメラルダは思う。
そうなのだ……エシャールは実質もう、許されているのだ。
猶予を与えると言いつつも、彼が今後、大した功績を立てられなかったからと言って、過去の罪を問うことは、きっとないだろう。
そのような痛ましいことを、ミーアが許すはずがない。
あの日、あの部屋でエシャールに沙汰が下った時点で、すでに彼が裁かれることは、決してないのだ。
「でも……、でも、それでは、僕は……」
まるで、道を見失った迷子のように、エシャールが不安げに瞳を揺らす。そんな彼に、新たな道を示すように、エメラルダは言った。
「エシャール殿下、あなたは、裁かれない。だから、恐れ、惑い、功績を立てることに焦るような、そのような生き方をすべきではありませんわ。あなたは……許された者として生きるべきです」
「許された、者……?」
「そうですわ。ミーアさまもそう、エイブラム陛下もシオン殿下も、もう、あなたのことを許している。シオン殿下は、あのように自らの身を賭して、あなたに贐を送ったではありませんの? あれは、罪を犯し、裁きを待つ罪人に対してのものではありませんわ。あなたを許し、そのうえで、これからのあなたの歩みに期待してのことですわ。ならば、あなたは、許された者として、相応しく生きるべき……そうではありませんの?」
口に出していて、改めて思う。少し考えればわかることだったのだ。
ミーアが……、ただ過去の過ちを償うためだけに生きるだなんて、そんな残酷な人生を押し付けることがあるだろうか? あの優しいミーアが、そんなことを許すはずがないのだ。
であるならば……、はたして、どう生きるべきか?
そして、エシャールを託された自分は、どのように彼を育てるべきか……?
エメラルダは、考えて、諭す。
「エシャール殿下、あなたはミーアさまに救われたのだと、その誇りを胸に生きるべきですわ」
「誇り……」
「ええ。そうですわ。罪悪感にうつむき、処刑を恐れ、こそこそと立ち回る……、そのような姑息な生き方は、ミーアさまに救われた者として相応しくありませんわ。もっとミーアさまを見習って堂々と、胸を張って生きるべきです。その先にこそ、真の功績が建てられる、私はそう思いますわ」
それでこそ、自身の夫に相応しい生き方である、と、エメラルダは考える。彼女の、夫に対する要求水準は、この上なく高いのだ。
「そして、あなたがそのように生きることを、私はもちろん、きっとミーアさまだって、応援しますわ。心から応援いたしますわ」
エシャールの両手をぎゅっと握って力説するエメラルダに、エシャールは、
「あ、あの……ありがとうございます……」
ちょっぴり照れ臭そうに、言うのだった。
離れ行く馬車を見送って後、シオンはエイブラムのもとを訪れた。
「失礼いたします。父上、お話があってまいりました」
「ああ、シオンか。どうかしたのか?」
毒の影響もすっかり抜けたエイブラムであったが、十日間は安静にするように、との医官の助言に従い、公務からは離れていた。
ゆったりと椅子に腰かけ、本を読んでいたエイブラムに、シオンは真っ直ぐに視線を向けて……、
「このたびのエシャールのことで、考えたことがありました。それを、ぜひ、父上にお聞きいただきたいのです」
エイブラムは、静かにシオンのほうに目を向けて……、そっと本を閉じた。
「聞こう」
その途端、シオンは気圧されそうになるのを感じる。
エイブラムの帯びた空気が、父から、王のものへと変化したのだ。
緊張を抑えるために、シオンは大きく息を吸って、吐いてから……、
「陛下……、私は……、人でありたいと思います」
静かに語りだした。
公正なる裁きをするために必要なこと。それは一切の私情を排すること。エシャールを弟としてではなく、ただ一人の罪人として裁くことが、あの時のシオンに求められることだったのだ。
かつてのシオンは、それを当然のことと思っていた。王としての責務だ。重たい王権をその身に負う者として、当然のことではないか、と、そう思っていたのだ。
でも、シオンは知った。自分が完璧とは程遠いこと。
正義と公正をなすのに、今の自分では、不足。ならば、どうするか?
ただ、正義の執行者として生きるべく、徹底的に情を捨てるのか……、それとも。
悩んだ末、シオンは一つの答えを出した。それは……、
「人は間違いを犯すものと……、そのことを知っている、人の王となりたいのです」
それこそが、シオンの答え。
「王ですら間違いを犯すと……それを認める王として、お前は国を治めるというのか……」
その言葉に、シオンは小さく頷く。
「人が人を治めるということは……、そういうことではありませんか?」
「そうか……。それが、お前の考える、サンクランドの形か……」
シオンの言葉に、エイブラムは深くため息を吐き、瞑目した。
やがて、その目が開き、真っ直ぐにシオンをとらえる。
「ならば、シオン。王の誤りを正す仕組みを作れ」
重々しい言葉が、シオンに投げかけられた。
「間違いを正す……仕組み?」
「そうだ。王が間違いを犯す人であるというなら、そういうものでありたいと願うなら、その間違いをただす仕組みによって、公正さが保たれなければならない」
「それは、どのようなものでしょうか……?」
その質問に、けれど、エイブラムの答えは厳しかった。
「さてな。それを考えるのはお前の仕事だろう。人として、大切な者たちに助言をもらいながら、考えていけばよかろう」
ハッと息を呑んでから、シオンは静かに頭を垂れる。
「よき友に恵まれたな。シオン」
その言葉に、シオンはゆっくりと頷き、
「ええ……かけがえのない仲間に……出会うことができました」
穏やかな笑みを浮かべるのだった。
その夜、エイブラムは、ささやかながら王妃と酒杯を傾けあう時を持った。
シオンの成長を祝い、そして、エシャールの旅路の無事を祈りながら。
来週、少し番外編を挟んで、次の週は一週間のお休みとします。