第百二十六話 王として、父として
時は、少しだけ巻き戻る。
王の部屋に一人残ったティオーナは、やや緊張した面持ちで、エイブラムを見つめていた。
「あの、陛下……」
「わざわざ残ってもらってすまなかった。改めてお礼が言いたいと思ったのだ」
エイブラムは静かに頭を下げて、言った。
「先ほどは、私を止めてくれて助かった。私だけでなく、エシャールの命も救ってもらったな。感謝する」
「いえ、そんな……。私は、たまたまそばにいただけですから」
わたわた、と手を振るティオーナ。
「そうか……。だが、信賞必罰は、公正の基本。なにかお礼にできることがあればよいのだが……」
「いえ、本当に、お礼だなんて……」
「なんでもよいぞ。物でなければ……そう。なにか、知りたいことでも、な……」
その言葉に、ぴくん、とティオーナの肩が跳ねる。
それを見て、エイブラムは穏やかな笑みを浮かべた。
「先ほど話の途中で、君がなにか物言いたげな顔をしていることが気になった。もしや、なにか私に質問があるのではないかと、そう思ったのだが……当たっていたかな?」
「…………」
「ここには、誰もおらぬ。仮にティオーナ嬢が他言したとしても私が認めなければどうとでもなること。なにも遠慮せず、気になることを聞くとよい」
帝国の辺土伯の娘がなにを言おうと、エイブラムが否定すれば、それで済むこと。言った言わないの水掛け論では、エイブラムは絶対的に有利。
そう考えれば、多少の都合の悪いことでも聞いてよいし、正直に答えるだろう、と、エイブラムは言っていた。
ならば……、ティオーナは改めて、エイブラムのほうを見つめる。
「では……、お言葉に甘えて……。エイブラム陛下、あの時、エシャール殿下が、なにかを飲み物に入れたことに気付かれていたのではありませんか?」
あの時、あの瞬間……、ティオーナはたしかに見たのだ。
エシャールのほうに、なぜだか、険しい視線を送るエイブラムの顔を。
その質問に対し、エイブラムは苦笑をこぼした。
「ああ、やはり、気付かれていたか……。そう、たしかに私はあの子が、シオンの飲み物になにかを入れたことには気が付いていた。まぁ、さすがに致死性の毒だとは思っていなかったが……。ちょっとした悪戯で入れたものだと思っていたのだ。そのようなことをするものではない、と叱るつもりだったのだが……」
「やっぱり、そうでしたか……。では、もしや、あそこから落ちそうになったのは、わざとだったのですか?」
「落ちて死ねば、毒か事故かはわかるまい。まぁ、顔に特徴の出やすい陰毒では、遅かれ早かれ気付かれてしまっただろうが……」
エイブラムは、息子をかばおうとしていた。
そのことが、ティオーナには嬉しく感じられて……だから。
「陛下は、本当にエシャール殿下を処刑されるおつもりだったのでしょうか?」
そのことが疑問だった。
我が子の裁きを平然と言い渡そうとするエイブラムと、あの時、自らの身を捨てて守ろうとした彼とが、どうしても一致しなかった。
「過失とはいえ、王に毒を盛った者は死罪を賜る。国の混乱を招く大罪、死罪をもって裁くことが正しい。それが当たり前のこと……。そうではないかな?」
それは、否定のしようがないこと。普通に考えれば、その判断を覆すことは難しい。
「恣意的に裁きを歪めては、王の正しさが揺らぐ。そして、王の正しさが揺らいでは、民が苦しむ」
厳然たる口調で、そう言ってから、
「だが、それは相手が、『王』であればの話だ」
「王であれば…………? まさか」
ティオーナは、その言葉でエイブラムの真意に気付く。
「退位なさるおつもりだったのですか? シオン王子に、王位を譲ると……」
「より正確に言えば、退位していたことにするつもりだった。あの舞踏会の前に、シオンに王位を譲っていたことに、な。そうすれば、エシャールの罪は多少は軽くなるだろう。さらに、新王の即位による恩赦で死罪は免れよう」
「しかし、戴冠の儀は……、それが済まなければ、シオン殿下に王位を譲ることはできないのでは……」
国内の貴族や、周辺の国々に新王の誕生を知らしめる戴冠の儀。通常であれば、その時をもって、王位は次の新王に移る。
ゆえに、極秘裏に王位を譲ることはできないのではないか?
ティオーナの問いかけに、エイブラムは首を振る。
「歴史を紐解けば、戴冠の儀は、それほど古くから行われていたことではない。王位を受けるために、唯一必要な儀は、中央正教会の司祭による“油注ぎの儀”のみ」
大陸の国はすべて、王権の正当性を中央正教会の神聖典に置く。
王は、神より、その地の統治を委ねられた者。ゆえに、王権を受け継ぐ者がなすべきことは、神よりその権威を受ける儀のみ。そして、神の祝福の象徴である香油を頭から浴び、その身に神の権威を帯びる、油注ぎの儀がそれにあたる。
儀式としては、そこまで大規模な儀式でないため、過去の歴史の中で、それが秘密裏に行われた例は少なくない。
「そして、その資格を持つ司祭以上の存在が、幸いにもあの場にいた」
「ラフィーナさま……」
中央正教会の聖女が、あの場にはいた。
ならば、舞踏会の前にすでにシオンに王位を継いでいたと、口裏を合わせることができれば、エシャールを救うことはできるかもしれない。
「エシャール殿下を救うために、王位を退こうとされていた……」
「どちらにしろ、王の正義を揺らすことなく、エシャールを死罪から救うためには、無理を通す必要があった。その責任を負うために、王位を退くぐらいのことをせねばならぬだろう」
静かにそう言ってから、エイブラムは穏やかに目を閉じた。
「それに……、エシャールを追い詰めてしまったことにも責任があるであろう。父親としてのな……」
「陛下……」
「王として正しくあることと、父として、我が子に愛情をかけること……それは時に両立しない。私は、あの時、エシャールのほうを選ぼうとしていた。それは、父親としての行いとしては正しくとも、王の正義を損なうもの。退位を決意するには、十分な理由だと思わないかね?」
それから、エイブラムは笑った。
「しかし、帝国の叡智は、私の考えを軽々と上回っていった。今回の騒動がなければ、私はエシャールの心に気付くこともなかっただろう。あの子は、いずれ同じことをして、兄殺しの大罪を犯してしまったかもしれない……。彼女は、考えうる中で最善の結末に導いてくれたな」
しみじみとした言葉に、ティオーナは頷いた。
「はい。ミーアさまは、そういう方です」
大切な友人が、エイブラム王に認められたことが、どこか誇らしかった。
「引き留めてしまって悪かった。貴女の疑問に答えようと思ってのことだったが、すっかり愚痴を聞かせてしまったな」
「いえ……。お心遣い、ありがとうございます」
エイブラムは、柔らかな笑みを浮かべて、もう一度、頭を下げる。
「それに、ミーア姫だけではなく、私は君にも感謝している。家族のことをかばわないのは間違っていると、君が言ってくれたこと、嬉しかった。改めて礼を言う」
そうして、ティオーナは部屋を後にした。
廊下を早足で歩きながら、ティオーナは考えずにはいられなかった。
王の孤独を。
正しくあろうとすればするほど、エイブラム王は、人間らしい感情とは離れていかざるを得なくなった。そのように、彼女の目には映った。
そして、いずれシオンも……。
ティオーナが会場に辿り着いたのは、シオンとアベルの戦いが、佳境を迎えた頃だった。