第五話 忠義のメイド
薄暗い地下牢。
ひんやりと、肌寒いその部屋で、ミーアは一人、膝を抱えて"その時"を待っていた。
ミーアが牢獄に囚われてから、実に三年の月日が流れていた。
彼女を取り囲んでいた大勢の使用人の姿も今はない。最初の数週間は、面会に来る者もいたが、ミーアが権力の座に返り咲くことがないと察すると、すぐに離れて行ってしまった。
そうして、ミーアは孤独になった。
けれど、数少ない例外は……、
「ミーアさま、御髪を整えにまいりました」
赤い髪の、年若いメイド、アンヌだった。
やってきたアンヌはかたわらに立つ兵士に一礼すると、牢獄の中に足を踏み入れる。ミーアはすでに麻痺しているが、牢獄の中は、それはそれは酷い臭いがした。最下層の貧民地区に匹敵する、そこは最低の環境。
けれど、アンヌは一切躊躇うそぶりを見せず、ミーアの後ろに回る。
それから、懐に入れていた櫛をくすんでしまった金髪に通す。
何日も洗っていない髪は、なかなかまとまらず、それでも確実に、アンヌはミーアの髪を整えていく。
「すみません、ミーアさま。私、昔から櫛を使うのが上手くなくって……」
「……どうして、あなたは、わたくしに尽くしてくれるんですの?」
ぽつり、と、ミーアの口から言葉がこぼれた。
この地下牢に捕らわれてから、アンヌは足しげく通ってくれていた。三日に一度か、一日置きにか。
時に差し入れを持って、あるいは、入浴できないミーアの体を拭いて身の回りを整えてくれるために、献身的に尽くしてくれた。
けれど、ミーアにはその理由がよくわからなかった。
ミーアは皇帝の娘だ。だから、その周りで美味しい思いをした者たちもいないことはない、というか、むしろ、結構いると思う。
けれど、目の前のメイド、アンヌは、そうではない。どちらかと言えば、ミーアのわがままに迷惑かけられた方なのだ。
一応、誤解がないように言っておくと、ミーアは別に暴君というわけではなかった。
そりゃあ、ドジすれば口汚く罵るし、キレれば手は出る。時には足だって出たし、場合によっては頭突きだってする。
……おおよそ高貴な身分にふさわしくないことだったと反省するミーアである。
けれど、それ以上はない。
ムチで叩いたり、その場にいた兵士に「無礼者を切り捨てなさい!」とはならなかった。だってそれって、痛そうだし……。
ミーアは痛いのが、あんまり好きじゃないのだ。
でも、だからと言って良い皇女では、決してなかった。
誰が好き好んで、罵倒され、足蹴にされた相手に尽くすだろう?
そんなのは一部の少し変わった嗜好の人だけだ。目の前のメイドは、おそらく違うだろう。
「わたくしは、あなたになにも良くしておりませんわ。むしろ……」
「はい。よく叩かれました。蹴られたこともあったかな?」
アンヌは、懐かしそうに微笑んで言った。
「知ってますか? ミーアさま、ミーアさまの蹴りは全然痛くないんですよ?」
「え? そうなんですの?」
「はい。弟たちとケンカした時と比べたら、全然です。ふふ」
それから、アンヌは、一度黙ってから、
「こうして、ミーアさまの御世話をさせていただいたのは、ただ、放っておけなかったってだけだから。特に理由なんてありませんよ」
そう優しい笑みを浮かべた。
穏やかな時間は長くはなかった。じきにやってきた兵士が、ミーアを処刑台まで連行していく。
別れ際、ミーアはアンヌの方を向いて、深々と頭を下げた。
「今の私は、あなたの忠義に報いることができませんわ。ありがとう、と、言うことしか、できないわたくしを、どうか許して」
次の瞬間、ふんわり、と、ミーアの体が温もりに包まれた。
「ミーアさまに、神のご加護がありますように、お祈りしています」
アンヌに抱きしめられたのだとわかった時、ミーアの瞳に、ふいに涙があふれ出た。こうして優しく抱きしめられたことなど、囚われの生活で一度もなかったから。
アンヌの溢れるような優しさが、ぬくもりが、嬉しくて……、でも口惜しい。
良くしてくれた彼女になにもしてやれないことが、ミーアの心に深い心残りとして刻まれたのだった。
どうにもならない未練を胸に抱きながら、ミーアは処刑台へと向かった。
「……思い出しましたわ」
ミーアは、目の前で両手を床について謝罪するアンヌの、そのかたわらに静かに膝をついた。
「姫さま、ドレスがクリームで……」
「お黙りなさい!」
取り巻きのメイドを一喝すると、ミーアはアンヌの肩をそっと抱き起した。
「アンヌさん、お顔をあげて」
「ももも、申し訳ありません。姫殿下」
「別に怒ってはおりませんわ」
そう言って、ミーアが浮かべた笑みは柔らかで優しげなものだった。
「さっ、お立ちになって。ケガは本当にないのですわね?」
「は、はい、あの、ありがとう、ございます」
ミーアに抱き起こされたアンヌは、目を白黒させている。そんなアンヌに、ミーアは、
「今こそ、私はあなたの忠義に報いることができますわ」
そうして、おごそかに告げる。
「あなたを今から、私の専属のメイドにいたします。以後、私の身の回りを担当なさい」
「……えっ?」
「ひっ、姫さま!?」
周囲の、ミーアの取り巻きのメイドたちに一斉に動揺が走った。