第百十九話 ミーア姫、ついに復讐を決意してしまう!
――ま、まずいですわ……これは。
けほっ、けほ、と小さく咳き込みつつ、ミーアは動揺する。
まさかの、最後の最後に回ってきた出番。最重要の場面で、喉がカサカサするという最悪の事態。
――いや、これはむしろ好機かしら? このまま咳き込んでおけば、いい具合に誤魔化せるかも……。
やっぱり波が来てますわ! これは乗っていくしかありませんわ! などと、悪い方向に押し流されそうになったミーアの耳が、不意に、ノックの音をとらえた。
そうして、入ってきたのは無二の忠臣……、アンヌの姿だった。
「失礼いたします。ミーアさま、ダンスの後すぐで喉が渇かれたのではないかと思い、お飲み物をもって来ました」
その言葉の通り、アンヌはジュースの入ったグラスを、お盆の上に載せていた。
「あ、ああ、アンヌ、素晴らしいタイミングでしたわ、けふっ」
ミーアは、それをいささか複雑な気持ちで見つめた。あれを飲んでしまったら、喉の調子は落ち着いてしまうだろう。そうしたら、いよいよ、難しい場面で話さなければならない。
エシャールをどうすればいいのか、答えは定まらない。
――ぐっ、ぐぬぬ、やはり逃げられませんでしたわ。こっ、こんなことなら、みなさんが話している間に考えをまとめておくべきでしたわ。
アンヌから受け取ったグラスを傾けつつ、できるだけゆっくりとジュースを飲む。
舌の上に広がるのは、酸味の効いた爽やかな甘味だ。鼻腔をくすぐる柑橘類の香りに、思わずうっとりしつつも、その味わいを楽しむ。
――これは、春先の森の奥に秘された、一輪の花にたまった朝露のような味……、さわやかな甘みはさながらキノコの……。
などと、ついつい、なんちゃってソムリエにまでなりかけたミーアであったが……、
――って! 現実逃避している場合ではありませんわ!
直後に、我に返る。
――ジュースの批評をしている場合ではありませんでしたわ。なんとか気の利いたことを言って、シオンとエイブラム陛下を納得させませんと……。
ふむむむ、と、眉間にしわを寄せる……その時だった。
「ミーアさま、ルードヴィッヒさんから伝言です」
アンヌが、真剣そのものの顔で、自分を見つめていることに気が付いた。
「あら……なにかしら?」
「はい。ミーアさまの御心のままになさってください、と。我々がなんとかしますから、とのことでした」
そう言ってから、アンヌはそっと、自らの胸に手を当てて続ける。
「ミーアさま、私も同じ考えです。ミーアさまがお望みのことをなさってください。私たちはいつだって、ミーアさまの味方でいますから」
「アンヌ……」
それに……クソメガネ……、とつぶやき、ミーアは目を閉じる。
思い出すのは、アンヌの最後の忠義……、そして、諦めることなく帝国を救おうとした忠臣の姿。
彼は、いつでも「なんとかするので」と言って、嫌な顔一つせず……。
――いや、嫌な顔はしてましたわね。ものすごーく嫌そうな顔をしてましたわ。うふふ、懐かしいですわ。
思わず笑ってしまう。
――彼とは、国内は駆け回ったものですわ。まぁ、ほとんどはわたくしが頑張ったとはいえ、クソメガネも頑張ってましたわね。わたくしが六なら、クソメガネは四ぐらいの割合でしたけど……。
実際には、ルードヴィッヒが八でミーアが二……、いや、若干、足を引っ張っていたので、一……。いや、ともかく、頑張ったのだ!
けれど……、その頑張りは報われることなく……。
ミーアとルードヴィッヒが蒔いた種は、残念ながら、ほとんど芽吹くことはなかったのだ。
――思い出したら……、なんだか腹が立ってきましたわ……。
ふつふつと、腹の底から湧き上がるのは怒り。なんともやるせない憤りだった。
そうして、ミーアは見出した。これは、復讐のチャンスではないか……、と。
――そうですわ……。こんな機会、滅多にございませんもの。ここは一つ復讐してやりますわ! 全力で復讐してやりますわよ!
やるべきことが見えたことで、ミーアはすっきり爽快な気分になる。
それからジュースをもう一口。喉の調子を万全にしておく。
「ありがとう。アンヌ、助かりましたわ」
グラスを返すと、ミーアは静かに振り返る。
そこには、ミーアの言葉を待つ、みなの姿があった。
ミーアは、ふんすっと怒りの炎を鼻から吐き出してから……、厳かに言った。
「人は、自らが蒔いた種は、自分で刈り取らねばならぬもの……」
それは、ミーアが身をもって知った教訓。決して揺らぐことのない真理だ。
「良い種であれ、悪しき種であれ、それは自らの手で刈り取らなければならない。そういうものではありませんか? 陛下」
確認をするように、エイブラムのほうを見つめる。
っと、エイブラムは知性の光を湛えた瞳で、見返してきた。
「そうだな。そういうものであろうな……」
エイブラムは正しさを認める。
それを確認したミーアの胸にあるのは……大いなる怒りだった。
だって、おかしいじゃないか……?
一度、蒔かれてしまった種は、もうどうしようもなくって。止めることなどできなくって……その破滅の実りは、どうしても自分の手で刈り取らなければならないなんて……。
どれだけ頑張っても、取り返せない……やり直せないだなんて……、
――そんなの、絶対に納得がいきませんわ!
それは、過去に、破滅の実りを回避しようとして、懸命にあがいた、ミーアの怒り。
そして今はその怒りを晴らすための復讐の好機。それを、ただエシャールの命さえ助かればいいだなんて、有耶無耶にすればいいだなんて、もったいないことだ。
ミーアはそっと瞳を閉じて続ける。
「確かに、その種の実りは自分の手で刈り取らなければならない……」
さながら、神託を告げる預言者のように厳かに。
「されど、それは今ではありませんわ」
力強く、断言する。
「どのような草花であれ、種を蒔けば、芽吹き、成長し、花をつけ、そうして実りを得られるまで、時間がございますわ、エシャール殿下もいつかは、自分で蒔いた種を刈り取らねばならぬ日が来る。されど、それまでには芽吹き、成長し、花をつける……そのような時間があるのではないかしら?」
ミーアが求めたものは「時間」だ。すなわち……、
「つまり、猶予を与えよ、と、そういうことかな?」
シオンの問いかけに、ミーアは、我が意を得たりと頷いた。
「その通りですわ。そして……」
そのうえで、なすべきこと……。時間、猶予を使いなすべきこと……。それは、
「そして……、もしも、その種が実る前に、別の種を……、良き種を、たくさんたくさん蒔くことができれば…………、あるいは……」
ミーアは遠くを見つめながら言う。戻ることのできない過去に思いを馳せるかのように、今はもう会えない忠臣の姿を求めるかのように。
「あるいは……、罪過の種だって立ち枯れるかもしれませんわ」
祈るように……、かすかに震える声でミーアは言った。
それは、あの日のミーアが心の底から欲していたもの。
懐かしきクソ眼鏡と一緒に、求め続けたもの。
蒔かれてしまった滅びの種の刈り取りは自分でしなければならなくって……。それはわかっていて……、それでもなんとかしようと、帝国中を駆け回った。
滅亡へと至る種が芽吹かぬように、途中で枯れるように、必死にあがいた。
あの日、ミーアが心から欲して欲して……けれど与えられなかった結末。
それは挽回の機会。
あるいは、そんなものはないのかもしれない。
蒔いた種は、絶対に刈り取らねばならなくて、それが絶対の法則なのかもしれなくって。でも……。
――そんなもの、認めてなんかやりませんわ。ただ一度、失敗して、悪しき種を蒔いてしまったらおしまいだなんて……、やり直せないだなんて、わたくしは絶対に認めませんわ。そうでないことを、証明してやりますわ。そこの、エシャール殿下を使って!
ミーアは夢想する。
エシャールがこの罪を贖って余りあるほどの功績を立てて、サンクランドに凱旋する日を。
彼を処刑しなくて良かったと、みなが口々に認めるその日を……。
それは、ミーアが得られなかったあの日の続き……夢見た未来の一つ。
そうして、はじめてミーアは言ってやるのだ。
ざまぁみやがれ、と。
蒔いてしまった種を、枯らしてやったぞ、と……。
それが……それこそが、ミーアの復讐だった。
――わたくしには与えられなかった機会ですけれど……、わたくしは与えてやりますわ。全力で、与えてやりますわ!
その絶対の因果に、ミーアは全力で蹴りをくれてやろうとしていた。
「なるほど……、それが帝国の叡智の……君の考えか……」
そうつぶやいて、シオンは……穏やかな笑みを浮かべた。
「やっぱり、ミーア……君は……」
と、そこで言葉を止める。その続きの言葉がどのようなものであったのか……知る者はなく。
小さくため息を吐いてから、シオンはエシャールに顔を向けた。