第百十五話 シュッシュッ!
「俺……が?」
まさかのミーアからのパスに、シオンは茫然とした。
――ミーア、いったいなにを……?
戸惑いつつも視線を向ける。と、ミーアは、自分を勇気づけるように、力強く微笑んでいた。
それで……、シオンは察する。
――なるほど、これが……名誉挽回の機会……か。
帝国に消えた風鴉の諜報員、ビセットを見つけたことで、それが為ったとは思っていなかった。けれど、まさかこのような状況が待っていようとは、思っていなかった。
レムノ王国での出来事が頭を過る。
『完璧に生きられる人間などいない。だからこそ、せめてやり直しの機会を与えてあげるべきですわ』
かつてミーアはこう言った。そして、実際に、シオンにやり直しの機会を与えてくれた。あのキックによって、シオンの胸に、失敗の記憶を刻み付けてくれたのだ。
――正義と公正……か。
それを保つことのなんと難しいことか……。深くため息を吐き、失敗の記憶を胸に……シオンはエイブラムのほうを見た。
「父上、この度のエシャールの沙汰、ぜひ、私にお任せください」
エイブラムはじっと無言で、シオンの目を見つめてから頷いた。
「……わかった。ならば、シオン、お前に任せよう」
その言葉を受け、シオンは静かに目を閉じ、息を吐く。
それから、ミーアたちのほうに目を向けた。
「事情が聞きたい。シュトリナ嬢、先ほど、毒がどこから渡ったものか、わかっているようなことを言っていたが……それはどういうことだろう?」
――ほう、シオン、まず他者から意見を聞こうというのですわね。
その姿勢に、ミーアはちょっぴり意外なものを感じる。問答無用に自分の意見を表明するのではない、慎重な姿勢である。
――ふむ、なかなか良い判断ですわ。
イエスマン志望の第一人者、ミーアはうむうむ、と偉そうに頷く。
「よろしいでしょうか?」
そう言って、シュトリナが視線を向けてきた。その意味を、ミーアは考え……、
――なるほど。この場に、蛇の手の者が潜んでいるかもしれない、ということですわね。
この場には仲間たちのほかに、エイブラム王、エシャール、王妃、ランプロン伯に宰相までいるのだ。
混沌の蛇のことを、どの程度まで話して良いのか、ミーアにも判断のつかぬ問題。
ゆえに、ミーアはシュトリナの視線を受けて、シュッとラフィーナのほうに目を向けた。
「そう……ね」
ラフィーナは一瞬、考えるようにして黙り込んでから……、
「例の風鴉の関連で説明してあげたらいいんじゃないかと思うけれど……」
なるほど、とミーアは手を叩く。
レムノ王国事件により、風鴉が半ば乗っ取られていたことを、サンクランドの王室は当然把握している。その時と同じ存在が今回の件にもかかわっているという説明の仕方ならば、仮にこの場に蛇がいたとしても問題はないだろう。さらに、
「でも、念のため……」
そう言うと、ラフィーナは静かに瞳を閉じる。
両手を胸の前で組み、歌うように聖句の一説を口ずさむ。
祝福あれ、祝福あれ。この地に神の栄光を。
剣帯びた王に、神の知恵を。
祝福あれ、祝福あれ。この地に神の栄光を。
公正なる裁きをもて、民を治め、かの地に平和を築け。
突如響いたヴェールガの聖女の清らかな声。その場にいる者たちはみな一様に驚愕の表情を浮かべたが、すぐにそっと瞳を閉じた。
やがて、それが終わると、ランプロンは穏やかな顔で言った。
「失礼、聖女殿、今のは……?」
「重要な判断は穏やかな心をもってするべきでしょう。神の前に心を静め、正しい判断ができるよう、祈りとして聖句を読み上げてみました」
静かに笑みを浮かべるラフィーナ。その目は、けれど、油断なく部屋の中の者たちの顔を観察していた。全員の顔をゆっくりと見まわしてから、
「たぶん、大丈夫じゃないかしら……。あまり、話しすぎないように気を付ければ……」
「なるほど……」
ミーアは、うむうむ、と頷き、シュッとシュトリナのほうを見た。
「……ということですわ」
「では、そのように……」
腕利き伝令兵ミーアは、滞りなく情報を伝達すると、静かに口を閉じる。余計なことは一切言わない。慎み深いのがミーアの良いところである。
……それはさておき、シュトリナは、一歩前に出て話し始めた。
「サンクランド王国の諜報部隊、風鴉に不穏分子が入り込んでいたことは、ご承知のことと思いますが、今回、エシャール殿下に毒物を渡したのは、その者の仲間だと考えられます」
「なっ……?」
突如として投入された、シュトリナの劇薬に、その場の者たちが言葉を失う。
「リーナ……いえ、私の調べたところですが、どうやら、騎馬王国の特徴を有した怪しげな者が、開放市場には出入りしていたらしく……、その者が下手人であると考えています。調査の途中、我々も狙われました」
「なんと、王都内で命を……?」
「騎馬王国ですと?」
それぞれに、驚きの声を上げるランプロンと宰相。一方、エイブラムは静かに目を閉じて、話を聞いていた。
「イエロームーン公爵令嬢、騎馬王国の者が下手人であるという話は、まことか?」
「正確には、その格好をした者です。これ見よがしに、その格好をして、街を出歩いているのは少し怪しいと思いますけれど……。少なくともそういう怪しい人間が解放市場に出入りしていたことは事実です」
「だが、いつだ? いつ、エシャール殿下に毒物を……」
「それは、以前、エシャール殿下が解放市場に行かれた時でしょう。あっでも……」
シュトリナは、ちょっぴり早口で付け足した。
「かの者たちは、巧みにすり寄ってまいります。たとえば、そうですね……、毒物に手紙でもつけて、服の隙間にこっそり押し込むであるとか……。買い物の商品に紛れ込ませるであったりとか、手段は無数にありますから、特に王子が一人きりになる時間がなくても、接触してくると思います」
――あら、リーナさん、ちょっと慌ててますわね。どうかしたのかしら?
首を傾げるミーアである。
「かの者たちは、心を操る術に長けております。エシャール殿下の心の隙を突いて、シオン殿下に毒を入れるように仕向けるのも、容易なことでしょう。そして、先ほども言った通り、渡したものをそもそも、毒と説明していない可能性もあります」
それだけ言って、シュトリナは下がろうとして……。
「あ、それと、僭越ながら付け加えるならば、その者たちはエシャール殿下が事を行い、処断されるところまでを、おそらく計算していると思います。その思惑に乗ることは、彼らを喜ばせることになるだろう……と、リーナは思います」
それから、シュトリナは、わずかに憐みのこもった目で、エシャールを見た。
――リーナさんは、エシャール殿下に過去の自分を見ているのかもしれませんわね。
ミーアは何となく思った。
シュトリナの話を、口を閉ざしたままじっと聞いていたシオンは、思案するように瞑目する。長い沈黙の後、彼はラフィーナのほうへと目を向けた。
「ラフィーナさまは、どのようにお考えでしょうか……?」
シオンは、聖女ラフィーナに意見を求める。
大陸にある数多の国家は、あまねく中央正教会の倫理的基盤を共有している。善悪の判断は、すべて神聖典を基準としている以上、ラフィーナに意見を尋ねるのは自然なことといえた。
「そう……ですね……」
それを受け、ラフィーナは涼やかな瞳を宙に彷徨わせた。ことの本質をじっくり吟味するように、黙ることしばし……。
「力を持つ者は、その力を正しく用いるべき。ゆえに、力を持つ者は持たざる者よりも、いっそう厳しく裁かれなければならない……。私はそう思っています」
静かな口調で、ラフィーナは言う。
聖女ラフィーナは権力者の横暴を許さない。力を持つ者は、神から任されたその権威に相応しく振る舞うべきである、という彼女の立場は揺らぐことはない。
「されど、此度のことは権力を使った悪事ではなく、被害を受けられたのもお父君。であるならば、ただ人のありようとして考えるのがよろしいでしょう。古くより、我らが神の神聖典は、裁きの基本をこのように教えます。すなわち、腕を奪った者の腕を切り落とし、目を奪った者の目を抉り出せ……」
と、そこで言葉を止め、みなの顔を見回してから、厳かに……。
「けれど、それ以上の害を与えてはならない……と」
与えた損害と同じだけのものを取り立て、それ以上は求めてはならないという、それは戒めの警句。ラフィーナは静かにエイブラムに視線を向ける。
「だから、私が問うとすればただ一つ。エイブラム陛下は命を奪われたのか、ということかしら?」
エシャールに死罪を与えるということは、起きた事象という面にのみ目を向けるならば過剰である、とラフィーナは結論付ける。けれど……、
「もちろん、これは、あくまでも結果に過ぎない。それをもって罪がないとは言えないでしょうし、エイブラム陛下のおっしゃっていたことはもっとも。どのような心で毒を入れたのかも考慮するべきでしょうけれど、でも……」
と、ラフィーナは、ここまで言って自らの心に戸惑っていた。
かつての彼女であれば、此度のエシャールのありようは、断罪されてしかるべきもの、と考えていただろう。王家の者としてあるべき資質に欠ける者と……、恐らくは断じていたはずだった。
でも……、ラフィーナはそっと胸に手を当てて言った。
「エシャール殿下はまだ幼い。兄に対する複雑な思いがあるのは、人として当たり前のことかもしれません……。なれば、王族に相応しく自らを律する術を、これから身に着けていけばよいのではないか、とも思いますけれど……」
思い出すのは、セントノエル。ミーアが行った沙汰。
ミーアは帝国貴族たちにやり直しの機会を与え、成長を促し……それを与えられた者たちは見事に更生したのだ。
――きっと、今回だってミーアさんは、エシャール殿下のことも思っているでしょう。今なら、少しだけミーアさんの気持ちがわかるわ。
友の気持ちが理解できたということが、ラフィーナは少しだけ嬉しかった。
彼女は偽りのない本心から、エシャールにやり直しの機会が与えられればいいと感じていた。
ミーアは、シュトリナとラフィーナの話を聞きつつ、エイブラム王の顔をうかがっていた。その顔は、厳しい表情を浮かべたまま、変わることはない。
――ふむ、なかなか手ごわいですわ。お二人の話を聞いて、許しちゃってもいいと、てっきり言い出すかと思いましたけれど……。ていうか、わたくしだったら、もう、そのように判断を下しておりますけれど……、あと一押し……、なにか波があれば……。
と、その時だった。
扉をノックする音が……響いた。