第百十一話 シュトリナ、ついに帝国の叡智の深淵にたどり着く……たどり……着く?
「別に、不思議なことなど、なにもないですよ」
シュトリナは気後れするでもなく、気張るでもなく、いつも通り、可憐な少女の口調で言った。
手当てをした当人の言に、ミーアを貶めようとした男が口を開いた。
「なにを言う? あんなにもあっさりと解毒薬を用意しておくなど、偶然にしてはできすぎではないか。それとも、かの帝国の叡智は未来を見通す目でも持っているというのか?」
「まさか。人の身にて、未来を見通すなど、到底できないことでしょう」
それは、たぶん帝国の叡智のやり方ではない。
シュトリナは知っている。
ミーアは、決して神などではない。すべてが計算通りに進むなんてことはあり得ないし、未来を見通す目を持っているだなんてこともあり得ない。
もしそうならば、きっともっと上手く立ち回り、毒を飲ませはしなかっただろう。けれど、いくらミーアの知恵が優れたものであったとしても、将来の出来事を知るなどということができるわけはないのだ。
では、なぜ、ミーアはこうも最善の手が打てるのか? あの蛇とすら、渡り合うことができているのか?
それは、すべて“備えているから”に過ぎない。
ミーアは、どのような事態が起きても対処できるよう、徹底的な準備を欠かすことはない。そして、今回はその一環としてシュトリナを頼ったのだ。
シュトリナは、今回の旅でそのことをよく実感していた。
「本当は、あまり、はしたないことをしたくないんですけど……」
言葉とは裏腹に、シュトリナはスカートの裾を優雅に持ち上げる。
それは、完璧な淑女の礼。されど、少しばかりスカートの上げ方が大きかった。
おかげで、シュトリナの華奢な脚がわずかばかり露わになる。雪のように白い肌、幼い膝小僧のすぐ上の、ほっそりした太ももには、ドレスには似つかわしくない革のベルトが巻かれていた。
そして、そのベルトには、小指ほどの細さの小瓶が何本も収められていた。
「これは、麻痺毒の解毒剤。これは、毒を吐かせるための嘔吐薬……」
ことり、ことり、と、ベルトから引き抜いた小瓶をテーブルの上に置いていくシュトリナ。その数に、貴族たちは一様に言葉を失う。
「帝国皇女、ミーアさまは、我らにとって欠かすことのできない方。なにかあった時のために、万全の備えをするのは当たり前のこと。飲まされた毒に合致する解毒薬を偶然に持っていたわけではありませんよ。どんな毒が使われても良いように備えていただけです」
千の毒を操り、万の毒を識る、イエロームーン家の総力を尽くして厳選した解毒剤だ。
サンクランド周辺で手に入りやすい毒を念頭に準備を進めてきたつもりだった。けれど、陰毒と陽毒については、さすがの彼女でも思いが至らなかった。
――ミーアさまのすごいところは、出先で出会った解毒作用のあるキノコに興味を持ち、それをすぐに取り入れてしまったこと……。
事前準備のみならず、臨機応変さをも備えた判断力、それにシュトリナは目を見張ったものだった。
――でも、今はそんなことはどうでもいい。
すべての小瓶をテーブルの上に並べて、シュトリナは、ニッコリと可憐な笑みを浮かべて、
「大切な方をお守りするための、当たり前の備えだと思いますけど、サンクランドではしないのですか?」
煽る! 煽る!!
っと、そこでシュトリナは気付いた。
――あれ……? リーナ、ちょっと怒ってる?
せっかく気持ちよく国王の命を救ったのに……、自分の力を用いての初めての善行、そこにケチをつけられたのが、ちょっぴり腹が立ったのだろうな、とシュトリナは理解した。
あまり、煽らないほうがいいんだろうな……、と一瞬思わないでもなかったが、
「こんな風に、レディーに、はしたない真似をさせたんですから責任をとってくださいね」
ニッコリ笑いつつ、まぁ、いいか、とシュトリナは思い直す。
腹が立ったのは事実だし、ここは煽れるだけ煽っておこう……と、できるだけ彼らが責任を感じるような言葉を投げかける……。そもそもケチをつけてきたのが悪いのだ。
そんなシュトリナの言葉に応えたのは……、
「そうですわ。あなたたち、恥を知りなさい。シュトリナさんは当たり前のことをしただけですわ。それなのに、このような、乙女に、こんなはしたない真似をさせて辱めるなど……」
意外なことに、エメラルダだった。
「シュトリナさん、よくやってくれましたわ。星持ち公爵家、筆頭令嬢として褒めて差し上げますわ。それなのに、あんな……、乙女の秘密を暴くような、はしたない真似をさせるなんて……!」
なんだ、筆頭令嬢って、とか、乙女の秘密って、足に解毒薬巻いてたことなんだけど……。と思わないでもないシュトリナだったが、それ以上に看過できない問題があった。それは、
「いえ……あの、エメラルダさん、リーナはそこまで、はしたないことはしてない……」
さすがにそこまで、はしたない、はしたない、と連呼されると、複雑な気持ちになってくるシュトリナである。そもそも、毎年夏にイケメン護衛と海水浴に行くほうが慎みがないのでは……? などとついついツッコミを入れたくなってしまうが……。
「なにも言わなくていいですわ。リーナさん、辛かったですわね。あんな風にはしたない真似をして、辛くなかったはずがありませんわ」
そうして、エメラルダはグイグイっとシュトリナを抱きしめる。
「だ、だから、そんなに、はしたなくは……」
「言わなくていいですわっ! あなたは、よくやりましたわ!」
――失敗。変なのを煽っちゃった……。
なんとも暑苦しいエメラルダに、シュトリナはちょっぴりげんなりして……でも、
「ミーアさまのご期待に立派に応えて見せましたわね。偉いですわ!」
不思議なことに、その言葉は、すっとシュトリナの心の中に溶けこんだ。
他の四大公爵家の者たちは、シュトリナにとっては暗殺の対象に過ぎなかった。いずれ、殺さなければならない相手。だから、どのような人物かは知っていても、交流を持つことはなかった。
――やっぱり、グリーンムーン公爵令嬢、エメラルダは単純な人。感情的でチョロい人だ……。簡単に煽ることができるし、心を操るのも多分簡単だ。
頭の中、事前に持っていた情報と、目の前の少女の暑苦しい行動は完全に一致していて。
――でも……、イヤじゃない……。
実際に触れたその単純さは温かで、その情の深さは、ちょっとだけ心地よいものだった。
――おかあ……、お姉さまがいたら、こういう感じなのかしら?
心の中で、微妙に気を遣うシュトリナ。未だにお祖母ちゃん呼びが治らない友だちとは大違いである!
まぁ、それはさておき……。
――今度から月光会、休まないようにしよう!
……シュトリナも、なんだかんだでチョロい人だった。
幼い少女を守るように抱きしめる麗しの令嬢。その姿は、糾弾者たちに冷や水を浴びせかけるのに十分だった。冷静に考えれば、今、糾弾しようとしている相手は、本来、自分たちが守るべきご令嬢であり、国王の命の恩人でもあるのだ。
しん、とした沈黙がその場を支配した、まさにその時……、
「陛下っ!」
悲鳴のような声が上がる。
よろめく体を臣下に支えられながら、エイブラム王が立ち上がった。苦痛をこらえるように、歯を食いしばりつつも、すっと背を伸ばして、彼はシュトリナのほうに歩み寄った。
「お嬢さん、命を助けてもらい、感謝する。我が国の者たちの数々の無礼、謝って済むとも思えぬが……」
「いえ、陛下。お気になさらずに。どうぞ、お体を休められますように」
柔らかな笑みを浮かべるシュトリナに、エイブラムは、苦しげな顔を少しだけ緩めてから、
「ランプロン伯。後のことは任せる。くれぐれもお客人に無礼がないようにせよ」
そう言い残して、会場を後にした。シオンとエシャールを伴って。
「ふぅ……、なんとか無事にすんだみたいだね」
後ろから、突然話しかけられ、ミーアは、びっくりして振り向いた。
と、ミーアのすぐ後ろ、腕を伸ばせば届く場所に、いつの間にやらアベルが立っていた。
その右手には、なぜかワインビンが握られていた。
注ぎ口を握りしめ、まるで剣のようにしている。
「あら、アベル……、どうしましたの、ビンなんか持って」
「ん? ああ、いや、なに……。少し喉が渇いたと思ってね。どうかな? ミーアも……」
「まぁ、アベル。わたくしを酔わせてどうするつもりですの?」
「え、あ、いや、これは、その……」
などと慌てるアベルを見て、ちょっぴり楽しむミーア。
――ジュースのビンと間違って持ってきたのかしら……。うふふ、あの状況で、わたくしが喉が渇くだろうと気を使ってくれたのでしょうけれど、ちょっぴりあわてんぼですわね。
などと微笑ましくなってしまう。
年下の男子をからかって楽しんでしまう、悪い大人のお姉さんである。
「冗談はさておくとして、無事におさまって、私も安堵していますよ」
見ると、アベルと同じくルードヴィッヒもまた、ワインビンを片手に握りしめていた。
「あら、少し意外な姿ですわね、ルードヴィッヒ」
こういった場面では、あまり酒を飲むようには見えないが……、と首を傾げるミーア。
ルードヴィッヒは、少しだけ心外そうな顔をして、
「私もやるべき時にはやりますよ……脱出路の確保ぐらい……」
などと、ぶつぶつ言っていたが……、後半のほうは、あまり耳に入っていないミーアである。
――あら、そうなんですのね。やるべき時にはやる……まぁ、サンクランド王室が用意したお酒なんて滅多に飲めるものではないでしょうし、気持ちはわからないではないですけど。
珍しいお菓子やキノコを求める気持ちと、そうは変わらないだろう。
ルードヴィッヒの意外な一面に、ちょっぴり共感しつつも、ミーアは首を傾げた。
「ところで、アンヌはどこにおりますの?」
「彼女には、念のため、近衛のもとに行ってもらいました。いざという時のために」
「いざという時……。なるほど、さすがに手際がいいですわね」
「しかし、シオンが黙っていたのは意外だったな……。てっきりあの者たちを諫めるかと思っていたが……、やはり、御父上が倒れたショックが大きかったのだろうか……」
「いえ、そうではないでしょう」
そう言って首を振ったのは、ルードヴィッヒだった。
「ええ、そう、ですわね……」
そして、ミーアもルードヴィッヒの意見に賛成だった。
――シオンは、おそらく弟が毒を入れた犯人であると気付いておりますわね。あの場で、それを公表することは、さすがに避けたかったのでしょうね。それでなくとも、自分が弟に殺されそうになった挙句、代わりに父上が毒を飲んでしまった。混乱は一入だったでしょうね……。
ミーアは、ううむ、っと唸った。
――しかし、エシャール王子、どうしたものかしら……。
エシャールが毒を盛ったことを、誤魔化す術はあるのだ。ぶっちゃけ、蛇に押し付けてしまえばいいのだ。責任を押し付けるのは、ミーアの常とう手段なのだ。
そもそも、毒を渡したのは蛇。ならば、エイブラムやシオンに納得してもらえれば、恐らく誤魔化すことは可能。
それに、ここがサンクランドである、ということも納得感を上乗せする。
なぜなら、彼らご自慢の諜報部隊「風鴉」が、ほかならぬ蛇によって浸食されていたのだから。
その事実を突きつけられれば、彼らは考えざるを得ないのだ。
風鴉のメンバーに、このような毒殺が可能かどうか、と。
そして……、ミーアは検討する。元風鴉の凄腕、イエロームーン公爵家にいる執事に、それが可能かどうか、と。
――たぶん、できるんでしょうね……。
ミーアの判断は可能である、だ。そして、もしも風鴉に可能であるならば、それを侵食し、手玉に取った混沌の蛇にだって、当然、それはできるということになる。
犯人は毒を入れ、客に紛れて会場を去った。
そのように、彼らを納得させることは、ここがサンクランドであることを考慮すると、そう難しくはない。ないのだが……。
――問題は、エイブラム陛下とシオンがどう考えるか。それに、エシャール殿下自身の問題ですわね。うーん……うーむむむ……。
と、その時だった。腕組みして考え込むミーアに、一人の兵士が歩み寄ってきた。
「失礼いたします。ミーア姫殿下。陛下が話があると、お呼びです」
「…………はて?」
ミーアの本当の戦いはここから始まるのだった。




