第百十話 二人の怒れる令嬢たち……とそれを見てアワアワする一人の……
小瓶から粉末状の薬を出し、それを水に溶かしてから、シュトリナは躊躇なく国王の口に注ぎ込む。
国王の頭を、膝枕で支えるティオーナは、それを固唾を飲んで見守っていた。
王の口からかすかに零れ落ちた液体がドレスのスカートを汚すが、特に気にする様子もなく、ティオーナは国王の顔を見つめ続けた。
そんな治療の様子を見ていたミーアは……ふと、あることに気付く。
――あら……これって、よくよく考えると、もしも失敗したらわたくしのせいになるんじゃないかしら……? リーナさんがしているのは、治療のはずですけれど、もしもエイブラム王が亡くなったりしたら、こちらが毒を盛ったと言いがかりをつけられるかもしれませんわ……。
そのことに感づいたミーアは、すっすっと視線を動かす。
そばにいる戦力は弓の達人、リオラと剣術の使えるティオーナ……。アベルも多分守ってくれるはず……、シオンもかばってはくれるだろうし……。
――いえ、だ、大丈夫ですわ。いざとなれば、ディオンさんがおりますし。あの方がいれば、たいていのことはなんとかなるはず……。
口の中で、ディオン・アライアが味方、ディオン・アライアが味方、ディオン・アライアが味方……と呪文のように三回唱え、ようやく、心の安定を取り戻したミーアは、改めてエイブラムのほうをうかがった。
「リーナさん、どんな感じですの?」
すると、シュトリナは、空のワイングラスを片手に立ち上がった。
「これで大丈夫……」
小さく頷いてから……、
「だと思います、たぶん……」
付け足してくる!
その、自信満々に断言できない姿勢に、ミーアは共感を覚える。が、同時に、その言葉に、そこはかとなく不安を覚えてしまう。
「でも、できることはやりましたから……」
シュトリナの言葉の通り、遠目にも、国王の顔色が戻ってきたのが見えた。顔に見えていた黒い影も、薄れ、普通の顔色に変わってきている。
と、そこに、遅ればせながら、医官たちがやってきた。
その場に倒れた国王に、みな一様に慌てふためいた様子を見せている。その中の一人に歩み寄ると、シュトリナは、状況を説明。陰毒に対して、陽毒の投与による解毒を行ったことを細かく説明している。
やがて、引継ぎも終わり、戻ってきたシュトリナに、ミーアは笑みを浮かべた。
「お疲れさまでしたわね。リーナさん」
「はい、ミーアさま……。どうやら、ご期待に応えられたみたいです」
シュトリナは、いつもとは違い、ちょっぴりホッとした、力の抜けた笑みを浮かべた。
「と言っても、使われたのが陰毒であることは、わかりきっていましたから、気を付けるべきは量だけでしたけれど」
「あら、そうなんですの?」
「はい。陽毒のほうが多いと大変です。体の活力が上昇して、全身から血を吹いて死ぬことになります」
「まぁ、恐ろしい。全身から血を噴いて……ん?」
聞き覚えのある症状に、ミーアは、かっくーんと首を傾げた。
――その死に方、なんとなく、皇女伝で見たことがあるような……?
っと、その時だった。
「毒? 毒ですと?」
王の手当てをする医官から、状況を聞き出したのか、一人の貴族の青年が声を上げた。
「では、陛下は……、毒を盛られ、暗殺されかけたと、そのように申すのだな?」
彼の声に、会場内は騒然とする。
「何者かに毒を盛られた……」
その声に、ミーアはぴりり、と嫌なものを感じる。
――これは、考えるまでもありませんけれど……、犯人探しが始まりそうですわね。
もしかすると、自分の食べたものにも毒が盛られていたかもしれない。そんな不安が、一斉に会場内に広がる。
緊張感に支配された会場に、青年の声が響いた。
「しかし、ほかに毒を飲んだ者もいない様子、となれば、怪しいのは……」
これで、ワイングラスを渡したエシャールに容疑がかかったら、面倒なことになるな、と思っていたミーアであったが、事態は意外な方向へと進む。
「もしや、手当てをするふりをして、毒を盛ったのではあるまいな?」
男が指さしたのは、ミーアの隣にいる少女、シュトリナだった。
それを見て、ミーアは、すぐに彼の目的を察する。
――ああ、なるほど。つまり、彼がやりたいのは犯人捜しではなく、わたくしたちに対する攻撃ですわね。
もともとこの場は、ミーアとシオンの連携に対して攻撃を加えるためのものだった。
エイブラム王が倒れたことで、状況は錯綜してきているが、サンクランド保守派としては、攻撃の手を緩めるつもりはないのだろう。
「いや、かのご令嬢は治療をされた。それは事実だ」
落ち着いた声で反論したのは、意外なことに、ランプロン伯だった。
「貴公のように若い貴族は知らぬだろうが、陛下に使われたのは、陰毒という毒だ。服毒すれば、顔に特徴的な黒い影ができる。間違いなく彼女が近づく前に、陛下の顔には、その兆候があった。それは間違いのないことだ」
断言するランプロン伯。けれど、さらに、それに反対する声が別の方向から上がる。
「しかし、それにしても手際が良すぎる。もしや、帝国の叡智の自作自演で……などということはありますまいな?」
「それは……」
と、ランプロン伯が黙り込んだのは、無理からぬことだった。陰毒が古い毒であり、その解毒薬をこの場に持ち合わせることは不自然……。
それは、陰毒を知らぬ者にもわかることだったからだ。
「すぐに解毒できたことが、なによりの証拠ではありませんか。仮にどのような毒を飲まされたのかわかったとしても、偶然にもその解毒薬をここに持ってきているということがあるだろうか」
「そうだ。いかにも不自然!」
――あら、この流れは……。
ミーアは、慌てる。身の危険を感じたからではない。もっとまずい気配を感じ取ったためだ。大急ぎで、ミーアは……ラフィーナのほうを見た。
「ひぃっ!」
思わず、口の中で悲鳴を上げる。
先ほど、王が倒れた時には、それなりに驚愕し、されど、ある種の落ち着きをもって成り行きを眺めていたラフィーナ……。そのラフィーナが――怒っていた。
唇を噛み締めて、白い頬は朱に染まり、その瞳には赤々と怒りの炎が燃え上がる。
――あっ、や、やばいですわ。ラフィーナさま、たっ、大変にご立腹ですわ!
そんな風に、ラフィーナが怒りを見せるのは、生徒会選挙の時以来だった。
最近、ミーアは実感していたのだが……どうもラフィーナは自分のことを友だちだと思ってくれているらしい。それも、割と大切なお友だちだと思ってくれているらしいのだ。
――つまり、今、あの貴族は、恐れ多くも聖女ラフィーナさまの、割と大切なお友だちにケチをつけようとしているのですわ!
それも、相当に無礼なやり方で、だ。
ミーアとしても腹が立たないではないのだが、ここで、弁解するには、犯人を明らかにする必要がある。けれど、公衆の面前で犯人がシオンの弟である、などと言えるだろうか……? 否、言えるはずがない。言ってしまったら大変なことになるだろうし、証拠もない。
なにより、小心者の心臓が望むのは、できーるだけ……、大事にしないこと。すでに、国王に毒が盛られるなどという、大変、胃が痛くなる事態になっているのである。これ以上の惨事は避けたいところだった。
――幸いにして、混沌の蛇がかかわっている状況、なれば、その責任をすべて連中の暗殺者に問うことは可能なはず。であれば、ここはできるだけ穏便に、わたくしたちにかかった疑いを晴らす必要がございますのに……。
さりとて、放っておくこともできない。これをきっかけに、シオンとラフィーナ、サンクランド王国とヴェールガ公国の関係が悪化などということになったら、それこそ、蛇が付け入る隙になるだろう。
――うう、これは、どう収めたものかしら……。
などとミーアが悩み始めた、まさにその時だった。
「控えなさい! 無礼者!」
その声は、予想外の方向から響いた。
まるで鞭のようにしなやかに、ぴしゃり、とその場の空気を叩いた声、みなの視線を一身に集めて、なお、凛然と立つは一人の少女。
豪奢な髪を怒りに逆立てて、サンクランド貴族をにらみつけたのは、
「我が親友、我が敬愛する姫殿下、ミーア・ルーナ・ティアムーンに対する、不遜なる言動は許しませんわよ!」
エメラルダ・エトワ・グリーンムーン。輝く星の称号を与えられし、帝国四大公爵家のご令嬢にして、第二王子の婚約者だった。
激昂して吠える、獅子のようなその姿に、サンクランド貴族たちは気圧された様子を見せた。
もとより、グリーンムーン家では、暴君として知られるエメラルダである。わがまま令嬢であり、わがままが許される立場の人間だ。
ゆえに、その怒りを黙って呑み込むような真似はしない。
その様子を、傍らで、エシャール王子が、ぽかーんっとした顔で見上げていた。
そうしてエメラルダによって生まれた一瞬の間隙に、二人目の令嬢が歩み出る。
四大公爵家が一角、イエロームーン家の令嬢……。あらぬ疑いをかけられ、名誉を傷つけられた少女、シュトリナだった。