第百九話 古の毒~偶然の出逢い~
みなの視線が、今まさにバルコニーから落ちそうになっているエイブラムたちに集まっている中、シュトリナは動き始めていた。
ミーアの意を受けて、エシャールのそばについていた彼女であったが、エイブラム王の行動は完全に想定外だった。
――まさか、エイブラム王があんな行動に出るなんて……。
そう……、それは想定外のことだった。
断じて、途中でトイレに行ったベルが、なかなか帰って来ないなぁ、などと一瞬の油断があったから……ではない。
油断がなかったとしても、突然のこと過ぎて、止めることはできなかっただろう……。
されど、国王の行動もまた、おかしいことではなかった。
彼はただ、長男が今飲めない飲み物を、次男から受け取っただけなのだ。
まさか、自らの次男が長男に毒を盛ろうなどと誰が予想できるだろう? 次男から、自分が受け取った飲み物に毒が含まれているなんて想像すらできなかっただろう。
だから、エイブラム王の行動はとても自然なことで……ゆえに、予想しておくべきことだったのだ。
「大丈夫、助かる……」
シュトリナは小さくつぶやく。
たしかに失態ではあった。けれど、挽回は十分可能。いや、むしろ、こういう時のためにミーアは準備を整えていたのだ。
――ここで役に立てないなら、連れてきてもらった甲斐がない。今すべきことは……。
みなの視線から外れた場所、立ち尽くす少年に音もなく歩み寄る。
「エシャール殿下、時間がありませんから端的に答えてください。どれぐらい飲ませましたか?」
「え……?」
顔色を失ったエシャールがビクリと肩を震わせる。
「殿下も、父殺しにはなりたくないでしょう? どのぐらい飲ませましたか? 早く答えて!」
小さくも厳しい声。エシャールは、震える声で「一つまみ」とだけ答える。
一つまみ……。証言を頭の中で反芻しながら、シュトリナは王のもとへと歩み寄る。
異常に気付き、騒然となる人々をかき分けながら、ティオーナのそばに歩み寄る。と、そのまま、倒れた国王の脇にしゃがみこんだ。
「動かさないでください!」
厳しい声で指摘して、それからエイブラム王の顔を見る。その顔の半分は……、まるで、死の相のごとく、黒く染まっていた。
――間違いない。陰毒の症状……。それも、半月蝕まで症状が進んでる。
陰毒、またの名を死月蝕の毒……。
服毒した際に、顔に現れる黒い影のような死相が、月蝕に似ていることから、その名で呼ばれている。
その効能は簡単に言ってしまえば、体の活力を低下させること。心の臓の働きを弱め、血の巡りを悪くし、全身を枯れ果てさせる優秀な毒……それが陰毒だ。
遥かな昔、幾人もの権力者の顔を黒色に染め、恐れられたこの毒であるのだが、されど、歴史の流れの中で人々の記憶からは忘れ去られていた。理由はとても簡単で、対処が比較的、容易であったからだ。
すなわち、陰毒とまったく反対の性質を持つ毒物、陽毒を適量飲ませればよいのだ。
陽毒、またの名を死紅炎の毒。これを飲むと、体の活力が異常に高まる。心の臓の動きは倍にも三倍にもなり、血の管が破れ、全身から血が噴き出す。
それで死ぬことができればまだマシな方。下手をすると長く毒が体内にとどまり続け、数か月も苦しみ続けることになるのだ。
こちらも、けれど、対処は簡単で、同じように適量の陰毒を飲ませてやればよいのだ。
そのように、反対の毒さえ持っていれば対処が容易な毒……。それゆえに、万全の備えをした相手に対しては無力。暗殺には適さない。だから歴史の中に忘れ去られ……、そして、いつしか対処法もまた廃れてしまった毒……。それがこそ陰陽の毒だった。
――長く狩猟に使っていた騎馬王国でも、もうあまり使われてないと聞くけど……。
少なくともシュトリナは、陰毒を見たことがない。イエロームーン家にも、それは存在していない。同じく陽毒も知識として知っていただけ。今回、行きがけにあのキノコと出会わなければ、解毒はできなかった。
――互いに、対極の毒を用いる以外に対処のしようがない毒……。もしも、サンクランドに来る途上での出会いがなかったら……どうしようもなかったな……。
そう思いつつ、シュトリナは陽毒の入った小瓶を取り出した。
一つまみ……。エシャールは言っていた。そして、その証言と、国王の顔に現れた月蝕の死相は一致する。
――ということは、飲ませる量は……。
「こっ、これはっ!」
っとそうこうしている間にも、サンクランド貴族たちが集まり始めた。そうして、王の顔色を見るなり、言葉を失う。
「まさか、これは……陰毒……」
どうやら、何人かは知っていたらしい。
特徴がある毒だから、暗殺を恐れる立場の者たちは知っていても不思議ではない。
「医官を、だれか、医官を!」
悲鳴にも似た叫び声を聞きながら、シュトリナはティオーナのほうを見た。
「ティオーナさん、しっかり押さえておいてください」
言いながら、シュトリナは取り出した陽毒をワイングラスに入れようとする。陰毒一つまみに対して、投与する分量を正確に見極めようとして……。
「おい、お前なにをしている?」
「小娘が、国王陛下に無礼ではないかっ!」
のんきなことを言う彼らは、恐らく国王の状態がよくわかっていないのだろう。が、より正確に状況を把握している者たちが寄ってくると、それ以上に面倒。彼らから見れば、シュトリナはたしかに小娘で、外国の人間。毒で倒れた国王のそばにいてよい存在ではない。
けれど、シュトリナには確信があった。国王の命を救えるのは自分だけであると。
ゆえに、シュトリナは顔を巡らせる。
この場の者たちを黙らせることができる、誰よりも状況を理解できている人物のほうへと。
そして……。その強い視線を眼力姫ミーアは敏感にとらえた。とらえてしまった……。
当初、突然の事態にアワアワするばかりだったミーアであるのだが、ティオーナがなんとか国王を助け上げ、しかも、毒のスペシャリストであるシュトリナが駆けつけてくれたところで、もう安心だー! と一息吐いたところだったのだが……。
――え? ここで、わたくしに振りますの?
突然、視線が飛んできて、再び慌てる。
――こっ、これは、下手なことは言えませんわ。なんとか、上手く受け流して……。
などと考え始めた、まさにその時……。
「ミーア……」
別方向からの視線を感じる。それはすぐ近く、ミーアの隣から送られてきていた。
見上げて、ミーアは驚く。
シオン・ソール・サンクランド、あの完全無欠の王子さまが……すがるような、なんとも不安げな視線を送ってきていたのだ。
それに気付いた瞬間……、ミーアは思わず頷いてしまっていた。
「大丈夫ですわ。シオン。大丈夫」
それから、周囲の者たちに目を向けて、堂々と言った。
「彼女は、我が帝国が誇る専門家ですわ。この場は任せていただきたいですわ」
そんなミーアの言葉を受けて、シオンも顔を上げる。自らの感情を落ち着けるように、大きく息を吐いてから……、
「みな、聞いての通りだ。彼女の邪魔をしないように。それと医官を早く呼ぶんだ」
先ほど見せた不安は、微塵も感じさせないようなきびきびとした口調でシオンが指示を飛ばす。
けれど、ミーアには見えていた。
シオンの握った拳が、小さく震えているのが。