第百八話 暗転
「陛下っ!」
そんなエイブラムのもとに、一番に駆け寄ったのは、ティオーナだった。それは、単純に成り行きによるものだった。
ミーアの指示を受け、シオンのそばにできるだけついていようとしていたティオーナだったが、二人がダンスに行っている間は手持ち無沙汰だったのだ。
――どうしようかな……。生徒会のみんなは……。
と、あたりをキョロキョロしていると、
「おや、君は……」
突如、後ろから声を掛けられる。慌てて振り返ると、そこに立っていたのは、
「えっ、エイブラム陛下!」
シオンの父、エイブラムだったのだ。
ティオーナの様子を見たエイブラム王は、苦笑いを浮かべて首を振った。
「やれやれ、我が息子ながら、友人をほったらかしにしておくとは、まだまだだな」
それから、彼は周りの者たちに声をかける。
「しばし、息子の友人と話がしたい。お嬢さんが緊張してしまうだろうから、お前たちは、少し外しなさい」
エイブラム王の周りにいた、おそらくはサンクランドの高官たちであろう男たちが、深々と頭を下げると、離れていく。
そうして、改めて、エイブラムは笑みを浮かべた。その瞬間、彼のまとっていた、近づきがたい王者の気配が、薄らいだように思えた。
「さて、ルドルフォン辺土伯令嬢、だっただろうか?」
「はい。陛下。お声がけいただき、光栄です」
ティオーナはスカートの裾をちょこんと持ち上げる。
夕食会の際にはミーアもいたし、エメラルダもいた。けれど、今は一対一である。さすがに、緊張するのは否めないところであったが……。
「すまないな。私がもう少し若ければダンスに誘うところなのだが、今は妻子ある身。さすがに、我が子と同い年のご令嬢にダンスを申し込んでは、好色のそしりを受けてしまいそうだからね」
冗談めかした口調で、エイブラムが言うので、わずかに肩の力が抜けた。
「お気遣い、ありがとうございます。陛下。私は、貴族といっても、帝国の田舎貴族。ダンスもさほど得意ではありませんので」
「ルドルフォン辺土伯家は、たしか、帝国の南端が領地であっただろうか?」
「はい、その通りです。陛下。帝都からは遠い地でございます」
「そうか……。帝国では新参の地方貴族は中央貴族から蔑まれていると聞くが……」
「残念ながら、そのような傾向はたしかにございます。ですが……、ミーアさまは、その因習にとらわれない方です。私にも声をかけ、友としてくださいました。私が苦境にある時には、躊躇うことなく助けの手を伸ばしてくださいました」
ティオーナは、セントノエルに行ったばかりの時のことを話した。身分の高い貴族令嬢に絡まれていた時、ミーアが助けてくれたこと、新入生歓迎ダンスパーティーのこと。
「ミーアさまのおかげで、私は、中央貴族に対する恨みから解放されることができました。ミーアさまは、不正を許さない、正義を愛する方。ある意味で、シオン殿下と似ているのかもしれません」
そんなことはない! のだが、ツッコミをする者もいないのが、恐ろしいところである。
「そうか。なるほど、あの二人は似ているか……」
エイブラムは、ダンスに興じる二人のほうを見て、かすかに目を細める。
「ならば、残念だが、シオンの恋が叶うことはないだろうな……」
「え……? あの……どういう意味でしょうか?」
不思議そうに首を傾げるティオーナに、エイブラムはしばし考えるように黙ってから、
「たしかに、ミーア姫は素晴らしい人物だが、シオンは、それを支える者には甘んじていられないだろう。王としての資質、人々を率いていく素質、シオンにはおそらくそれがある。その資質はミーア姫には劣るかもしれないが……、眠らせるには大きすぎる資質だ。それゆえに影に甘んじることはシオンにはできん」
まるで、世界の真理に通じる賢者のごとく、エイブラムは言った。
「シオンは王としての才は十分に持っているが、王以外のなにかにはなれぬ。どれだけ頑張っても、仮に努力によってミーア姫の資質を上回ることができたとしても、その才がぶつかってしまうだろう」
そこまで言って、エイブラムは少し意外そうな顔をした。
「悲しそうな顔をするのだな……」
「それでは、シオン殿下が……可哀想です」
ティオーナ・ルドルフォンは、ずっと中央貴族を見返したいと願って努力を続けてきた少女だ。自分の存在を認めさせたいと願い続け、それをミーアによって叶えられた人だ。
そんな彼女からすると、シオンの努力が認められないというのは、いたたまれないことのように感じられて……。
けれど、エイブラムは穏やかな笑みを浮かべて言った。
「君は優しい娘のようだ……だが、そう気にすることもない。失恋の一つや二つ乗り越えて、男は成長していくものだからね」
と、その時だった。エイブラムがふいに表情を厳しくした。
「……あれは」
小さくつぶやいてから、彼は深いため息を吐いた。
そんなやり取りを経て、複雑な気持ちを抱えたままティオーナは、シオンとミーアがやってくるのを見ていた。そこにエシャール王子が飲み物を持って近づいていき、でも、もう一曲踊るから、とシオンが受け取らずに……。
代わりにそれを飲んだエイブラムが……、ゆっくりとバルコニーの手すりのほうに、ふらふらと歩いて行って……そして。
まるで、時の流れが緩やかになったかのような……そんな視界の中、ティオーナはかろうじて、エイブラムの異変に気付き、動き出していた。
「陛下っ!」
落ちそうになったエイブラムに、必死に手を伸ばす。その腰に抱き着くようにして支えるが、体格差が災いして、そのまま落ちそうになる。
「リオラっ!」
咄嗟に上げた声は、近くにいて動けずにいる誰かにかけたものではなく……一番の臣下への声! 直後、疾風をまとって駆け付けたのは、
「ティオーナさま!」
ティオーナの自慢の従者、リオラ・ルールーだった。
彼女はティオーナの反対側からエイブラムの服をつかみ、思い切り両足を踏ん張って、
「んぁっ!」
背筋をフルに使って一気にエイブラムの体を引き戻した!
けれど、それでは終わらなかった。
なんとか引き上げたエイブラムの顔は、一切の血の気を失い、まるで死人のように白く染まっていたのだ!
「動かさないでください!」
鋭い声。直後、ティオーナの視界に入ってきたのは、花のような可憐な空気をまとった少女、シュトリナだった。