第百六話 魔性の乙女ミーアの熱い吐息
――食べ物……、美味しいケーキなどが望ましいですわね。どこかにあれば……。
ミーアは、きょろきょろと会場内を見回す。
あたりには、未だにミーアが生み出した衝撃の余波が残っていた。ランプロンの司会により、パーティーは会食とダンスの時間へと移ってはいるものの、どこかそわそわと落ち着きがなかった。ひそひそ話をする者、上の空の顔でダンスに興じる者、さまざまだ。
パーティー会場はおもに、ダンスをするためのエリアと食事や飲み物の乗ったテーブルエリアに分かれていた。どうやら、ワイングラスを片手に星を見るという趣向らしく、テーブルエリアはバルコニー寄りに作られていた。
ミーアはとりあえず、友人たちの姿を探そうと思っていたのだが……ふいに近づいてくる者の姿が目に入った。
「やあ、ミーア。お疲れさま」
それは、ワイングラスを両手に持ったアベルだった。
「あら、アベル。ありがとう、持ってきてくださったのね」
ミーアはグラスを受け取り、軽く口をつける。それは、リンゴをベースにした飲み物だった。ほのかに甘いリンゴの香り、さわやかな酸味を舌の上で転がしてから飲み込めば、冷たい感触が喉を潤してくれる。
ジンワリと脳内に糖分がしみ込んでくるのを感じて、ほふぅっとため息を吐いたミーアだったが……、ふと、グラスを見つめて考えてしまう。
――もしや、シオンへの毒も、こうして飲み物の中に混ぜられたりしたのかしら?
そうなのだ。今回のミーアのメインミッションは、シオンの暗殺を防ぐこと。それは未だに続いているのだ。先ほどは、ルードヴィッヒの策に乗って上手く立ち回れたものの、それは、シオンの暗殺には関係のないこと。
――さて、どうしたものかしら……。
手近にあったマカロンを、さく、さくさく、と食べて糖分補給。そうしている最中にも周囲を観察。
テーブルエリアには無数の食べ物が用意されていた。もしも、あの中に毒を混入されたら、防ぐのはなかなかに難しい。できれば、今夜はシオンには何も食べず、飲まずにいてもらえれば一番いいのだが……。
「考え事かい? ミーア」
ふと顔を上げると、アベルが少し心配げに見つめていた。ミーアはその顔を見て、なんとなく思う。
――しかし、こうして見ると、アベルって、すごくまつ毛が長いですわね。まっすぐで、澄んだ、すごく魅力的な目をしておりますわ。
……恋愛脳は平常運転なのだ。
そうして、ぽげーっと見惚れていると……。
「あー、ミーア。そんなに見つめられると、少し照れてしまうんだが……」
アベルは、若干、気まずげに、目を逸らした。
「あ、ええ、ごめんなさい。ええ、少し気がかりなことがございまして、ボーっとしておりましたわ」
あわわ、と言い訳しつつ、ミーアは思う。
――これは、困りましたわ。後で、ダンスを申し込まれたら、冷静でいられないかも……、あ、そうですわ。ダンス!
刹那、ミーアに天啓が閃く。
――シオンをダンスに誘って飲み物を飲む隙を与えないようにするのはどうかしら……?
いかにシオンがなんでもこなせるパーフェクト超人であるとはいえ、さすがにダンスをしながら、飲み物を飲むことなどできはしない。当然、食べ物だって無理だろう。
――まず、わたくしがダンスに誘ってやれば、シオンも断わりはしないはず。あとは、あの男のことですわ。パートナーには事欠かないはず。ダンスとダンスの合間に飲み物を取りに行ったりはするでしょうけれど、その時間を限定することができるはずですわ。となれば……。
ミーアはアベルのほうを見て、頭を下げる。
「ごめんなさい、アベル。今回はシオンの顔を立てるために、先にダンスをしてきてもよろしいかしら?」
ちょっぴり上目遣いになって尋ねる、と……。
「ん? ああ、もちろんだよ。ダンスも外交の一環。シオンと仲が良いところを見せておくことは、君の対抗勢力の者たちにも牽制になるだろうしね」
アベルは柔らかな笑みを浮かべてそう言った。特になにも気にしていないというか、ごく当たり前のことのように、了承してくれた。
それにミーアは…………、ちょっぴりモヤっとしてしまう。
――アベルったら、わたくしがシオンとダンスをするのに、なにも気にならないのかしら……?
私がほかの男の子とお話してるのに、ヤキモチを焼かないなんて、どういうこと!? などという、めんどくさーい乙女心を燃やしてしまったミーアである。
モヤモヤ恋愛乙女なのである。
「アベルは、気になりませんの? わたくしが、その……ほかの殿方とダンスをしても……」
と、そんなことまで聞いてしまう始末である。
対して、アベルは……実に真剣そのものの顔で、
「そうだね。気にならないと言ったら嘘になるかな……でも、ボクはもう、覚悟を決めたから。君に相応しい男になるって……」
その力強い視線に貫かれて、ミーアの胸がトックゥン! と高鳴った。
「アベル……」
「だから、君がもしほかの誰かに心を惹かれることがあったとしても、ボクはその相手に勝つよ。相手がたとえ、友人のシオンだって関係ない。必ず打ち勝って、そして君を振り向かせてみせるとも」
その堂々たる宣言に、ミーアは、ほわぁ、っと息を吐いた。かぁっと頭が熱くなり、ぽやーっとしてしまう。そんなミーアの背中を優しく押して、アベルは言った。
「だから、さぁ、気にせず行ってきてくれたまえ。シオンもたぶんミーアと踊ってからじゃないと、ほかの女性と踊れないと思うからね」
この場にいる高位の女性といえば、ミーアかラフィーナである。ラフィーナが一番手を務めることも考えられなくはないのだが、どうやら、遠慮しているらしい。
というわけで、シオンは貴族のご令嬢に囲まれつつ、笑顔で応対を続けていた。
たしかに、ミーアが行かなければ、始まらない雰囲気はあるが……。
「え……ええ。そうですわね」
大きく息を吸って、吐いて……、一度気持ちを落ち着けてから、ミーアは気分を切り替える。
――今は、シオンの暗殺阻止が一番大事。集中、集中ですわ!
そうして……ミーアを送り出した後、アベルは小さくため息を吐いて、
「……やれやれ、ボクもまだまだだな……」
思わずといった顔で苦笑いをする。ついつい、強がってしまったわけだが、実のところ、その内心はなかなかに複雑だった。
「ただダンスパートナーを譲っただけで、こんなにも動揺するとは……。自分に自信があれば、もっと余裕でいられるのかもしれないが……。なかなかままならないものだ」
知らず知らずのうちに、純真な少年の気持ちを弄んでしまう、魔性の女ミーアなのであった。