第百四話 種火
――相変わらず、すごいな。ミーアは……。
シオンは、思わず感嘆のため息をこぼした。
――ランプロン伯はまだしも、父上とすら、まともにやりあうなんて……。
改めて、自分と彼女との差を実感する。
――帝国の叡智……か。
「やあ、シオン。しばらくだね」
その声に、シオンは思考の海から浮上する。顔を上げると、そこには旧知の友人の顔が見えた。
「ああ、アベルか。ふふ、学校で再会を喜ぶはずが、いろいろと上手くいかないものだな」
セントノエルの新学期はすでに始まっている。本来であれば、今頃、シオンはヴェールガ公国にいるはずだったのだが、今回はこのパーティーのために出発を遅らせたのだ。
王侯貴族が集まるセントノエルでは、この手のことは日常茶飯事だ。母国の重要行事などに参加する場合には、休学が許されているのだ。
「この手の行事は仕方がないさ。それに、生徒会の面々と、こうして母国で会えるのは、結構、新鮮なんじゃないか?」
肩をすくめるアベルに、シオンは苦笑する。
「たしかにな。もっとも、家族に紹介するというのは、いささか気恥ずかしいものがあったが……」
「兄上? その方は……」
っと、近づいてきたエシャールが首を傾げる。
「ああ。覚えていないか? お前が小さい時に一度会っていると思うが。レムノ王国の第二王子のアベル殿下だ。セントノエルでともに生徒会の務めを担っている……俺の友だ」
「君に友と呼んでもらえるとは光栄だな、シオン」
アベルは、少しばかり気恥ずかしそうな顔をしてから、改めてエシャールのほうを見た。
「やあ、エシャール殿下。アベル・レムノだ。この度の縁談、我がレムノ王国を代表してお祝いを申し上げたい」
「ありがとうございます、アベル殿下。突然のことで困惑していますが、サンクランドのため、励みたいと思っています」
その答えを聞いて、アベルは目を丸くした。
「はは。すごいな、エシャール殿下は。ボクが君ぐらいの年には、そこまでのことは考えられなかったよ」
そうして朗らかに笑うアベル。その顔には、卑屈さはまるで見られない。
セントノエルに入学したての頃には、どこか、投げやりな雰囲気が見え隠れしていたものだったが……。
――変わったな、アベルは。兄君に対する劣等感から解放されて、堂々としている。
剣の腕前のみならず、勇敢さや人柄も認めている友の姿を見て、シオンはふと思う。
この友人のように、弟もなれるだろうか? と。
この出会いが、エシャールに良い影響を与えてほしいと思う。アベルとの出会いだけではない。ミーアや彼女の臣下、友人たち……。ミーアを取り巻くすべてが、きっと、エシャールには良い刺激になるだろうと思う。
エシャールも自分と同じように、凝り固まった価値観を壊してもらえたら……、その時は……。
「しかし、すごいな……ミーアは」
アベルの言葉に、シオンは我に返る。
「ああ……。まったくだな。いつも、彼女には驚かされるな」
素直に頷き、シオンはミーアのほうを見た。父と対等に渡り合う、自分と同い年の少女のほうを。
「ミーアのあの構想は、大陸の歴史を変えるだろうな……」
それは、飢饉に対する対策という側面だけではない。人々の意識すら変えるものだ。
大陸には、広く中央正教会の価値観が敷かれている。それにより、国は違えども、なにが正しく、なにが間違っているかの、一定の基準は共有化できている。
もちろん細かな部分では違ってはいても、例えば「困っている人は助けなければならない」であったり「権威を与えられた貴族は、民の安寧を守らなければならない」などの、基本的な道徳観念は一致しているのだ。
……けれど、それはあくまでも建前だ。
遠き異国の地に住まう者たちが、本当に自分たちと同じなのか? もしかしたら、悪逆な鬼が化けた者ではないのか? という漠然とした不安は、常に人々の心に残っている。
会ったことがないから……、実際に話をすることなどないから……、どうしても、信頼できない部分があるのだ。
ゆえに、他国人は容易に未知の敵へと変貌する。
いかに、同じ神を信じ、同じ正義を持つ、同じ人間であると、声高らかに言ったところで、それをどんな時にでも信じるというのは、なかなかに難しいことなのだ。
しかし、もしもミーアの構想が実現したら……、世界は真の意味で変わるのかもしれない。
人や物の流れはより太く強固になり、国と国とではなく、人と人との繋がりが築かれるようになるかもしれない。遠き地に住まう者も、自分たちと同じ人であると、実体験として知る、そのような機会が増えるのだから。
「しかし、ミーアは逆の意味で身の程を知らないな」
「というと?」
「あのような組織のトップに相応しい者は帝国の叡智以外にはいないだろう」
シオンの指摘に、アベルは深々と納得の頷きを返した。
「ああ、そうだな。それは本当にそうだ。しかし……」
と、そこで、アベルが小さく笑った。
「どうかしたのか?」
「いや、なに。さすがにミーアも緊張したのか、先ほどはずいぶん訛っていたなと思ってね」
完璧な賢者としての仮面の裏から、ちょっぴり可愛らしい素顔が覗いたようで、たしかに先ほどの場面は微笑ましいもののように思えた。思えたのだが……。
「どうかな。あれは、わざとだったのかもしれないぞ?」
シオンはそう言って、肩をすくめた。
「どういう意味だい?」
首を傾げるアベルに答えたのは、意外にもエシャールだった。
「"完璧な人間には誰もついては来ないもの"……と、そういうことでしょうか? 兄上」
「ああ、そうだ。あるいはミーアであれば、わざと隙を見せることで相手の心をつかむ、ということもやってのけるのではないか、と思ってな」
その言葉に、エシャールは不思議そうに首を傾げた。
「そのようなこと、あり得るでしょうか?」
「彼女ならば、十分にあり得ることだ。そのぐらいの計算はやってのけるだろう」
それから、シオンはエシャールの目を見つめて言った。
「ミーアがあのような構想を立てているのであれば、お前とエメラルダ嬢の縁談は、きっと意義深いものになるだろう。サンクランドの王子として、立派に役目を果たすのだぞ」
期待を込めて、シオンは言った。
シオンは知っている。エシャールがもがいていること。サンクランドの王子として立派に振る舞えるように、努力を重ねているけれど、兄である自分と比べて傷ついているということも。
――俺を目指すのではなく、エシャールにはエシャールのやり方があるのではないかな。俺と同じになる必要なんていないんだ。
資質は一人ずつ違うもの。シオンにできることとできないことがあるように、エシャールには、エシャールにしかできないことがある。
ミーアの構想が、それに気付くきっかけになったらいいと、シオンは思っていた。そして、ミーアの構想に二人で協力することができたら……。その役割の一部を、兄弟でともに担うことができたら、それは、どれだけ素晴らしいだろう。
そんな、純粋な願いを込めて、シオンは言った。
「俺も、ミーア姫と協力し、できる限りのことをしよう。サンクランドの王子として、ともに役目を果たそう」
「はい……。シオン兄さま」
エシャールは小さな声で言い、それからうつむいた。
その表情は、誰にも見えなかった。