第八十二話 シロップゼリーフィッシュ
「ここが、サンクランドの王城なんですね……ミーアさま」
アンヌが気圧されたように、そびえ立つ城壁を見上げていた。
それは、荘厳な石造りの城壁。あらゆる攻撃を跳ね返す重厚な壁は、しかし、それほどの幅はなかった。
ミーアの足でも、十分程度で端から端まで行くことができるだろう。
過度に大きい必要はないのだ。襲い来る敵を迎え撃てる、適切な大きささえあれば良い。
それは戦いのための建築、白月宮殿とは全く違った思考の元、建てられたものだった。
「ふむ、あれが、ソルエクシード城。わたくしも来るのははじめてですわ」
前の時間軸を含めて、ミーアがサンクランドに来たのは、これが初めてのことである。当然のことながら、サンクランドの王城、ソルエクシード城に来たこともない。
――遠くから見ても思いましたけれど、堂々たる威容ですわね。見ているとなんとも、誇らしい気持ちになってきそうですわ。
なるほど、これも、サンクランド貴族の考え方に影響を及ぼしているのかもしれない。すべての国の民を、この威光のもとに……、などと言い出したくなっても、おかしくないように、ミーアには見えた。
っと、そこで気付く。アンヌがまだ城を眺め続けていることに。
「あら、どうかしましたの?」
「いえ……、ミーアさまも初めて来られたんだって聞いて……なんだか、すごい経験をしてるなって思ってしまいました。ティアムーン帝国の白月宮殿で働けるだけでもすごいことなのに、セントノエル学園にも、それに、ペルージャンのお城にも、ご一緒させていただきました。この上、サンクランドまで、だなんて……」
微笑むアンヌに、ミーアは深々と頷いた。
「そうですわね、普通に過ごしていれば、あまりないことなのかもしれませんわね……」
前の時間軸でのアンヌは、きっと生涯を帝都で過ごしたことだろう。あるいは、どこかに行くとしても、帝国からは出なかったのではないだろうか?
それが家族のもとを離れて、サンクランドにまで来ているのだから、珍しい経験には変わりないだろう……。
そこでふと、ミーアは心配になる。
「ねぇ、アンヌ、大丈夫かしら?」
「なにがですか? ミーアさま」
不思議そうな顔をするアンヌに、ミーアは言った。
「家族としばらく会っていないでしょう? セントノエルに行く時には、ついてきてほしいって、お願いいたしましたわね。でも、ヴェールガ以外の国については、そうしておりませんわ。当たり前のようについてきていただいてますけれど、もしも家が恋しくなったのなら……」
「そんなことは、絶対にありません」
アンヌは静かに、けれど力強く首を振った。
「ミーアさまと一緒にいろいろな場所に行くことは、私の誇りです。それにエリスにもお土産話がたくさんできて、大歓迎されてるんですよ?」
そうして、悪戯っぽい笑みを浮かべて、アンヌは続ける。
「だから、ご安心ください。私は、ミーアさまの行くところなら、どこへだって行きます。ダメだって言われてもついていきますから」
「アンヌ……。ふふ、そうでしたわね。では、これからもお世話になりますわね」
それから、ミーアは、ソルエクシード城を見上げて、
「さて、それでは行きますわよ!」
一つ気合を入れるとミーアは、エメラルダとティオーナを従えて、堂々と城の中に踏み入った……のだが……、ミーアが強気でいられたのも、国王を前にするまでのことだった。
「ご機嫌麗しゅう、エイブラム陛下。ティアムーン帝国皇女、ミーア・ルーナ・ティアムーンですわ」
広い謁見の間に通されたミーア一行はサンクランド国王、エイブラムとの面会を果たした。
スカートの裾をちょこんと持ち上げて、深々と頭を下げるミーア。
そこらの小国とは違い、サンクランドはティアムーンと同格。大国の国王が相手である以上、完璧な礼節を整えて臨まなければならない。
ともあれ、それは慣れたもの。ミーアは完全無欠な姫スマイルを浮かべて、挨拶を敢行した。
「遠いところを、ようこそ来られた。ティアムーンの皇女殿」
ミーアの礼を受けて、サンクランド国王、エイブラム・ソール・サンクランドは微笑みを浮かべた。
ミーアはその顔を見て、素早く分析する。
年の頃は……、恐らく、自らの父である皇帝と同年代だろう。見事な口髭と深みのある知性的な瞳を備えた男だった。
一見すると、優しげな笑みを浮かべているにも関わらず、ミーアは、自らが気圧されるのを感じた。
――こっ、これが……、サンクランド国王陛下……。お父さまとは、比べ物にならないほどの迫力ですわ……。
その体躯から発するは、清流のごとき清らかな空気、それに当てられて、ミーアは思わずクラァっとした。
なにしろ、ミーアは海月だ。しかも、砂糖水の中でしか生きられない希少種の、甘水海月なのである。
清らかな水の中では、しんなりしてしまうのも無理のないことではあった。
――って、ぐんにょりしてる場合ではありませんわ!
ミーアは自分を励ましながら笑みを返した。イメージするのは、昼食を共にした友人、聖女ラフィーナの姿だ。
きっと、ラフィーナならば、この国王を前にしても平然としているだろう。そんなラフィーナの堂々たる態度を完コピしつつ、ミーアは言った。
「いつも、ご子息であらせられるシオン王子にはお世話になっておりますわ」
「いや、我が息子も、貴女の優れた知恵に良い影響を受けているようだ。だから、どのような人物なのか、気になっていたのだ。こうしてお会いする機会が得られたことを嬉しく思っている」
それから、エイブラム王は、ティオーナのほうに目を向ける。
「君がティオーナ・ルドルフォンか。セントノエルの生徒会では、息子が世話になっているな」
「もったいないお言葉でございます。陛下」
声をかけられると思っていなかったのか、ティオーナは驚いた顔をするも、すぐに、頭を下げる。
最後にエイブラムは、ミーアの隣に立つエメラルダに視線を止めた。
「そして……、そちらが、エメラルダ・エトワ・グリーンムーン嬢かな?」
「はっ、はひっ……」
ぴょんこっと飛び上がるエメラルダを見て、ミーアは、スーッと気持ちが冷静になるのを感じた。
――これは……、わたくしがなんとかしてあげないといけませんわね!
手のかかる姉貴分のため、一層の気合が入るミーアであった。