第七十二話 恋の花は枯れて
初恋は実らない。
特に貴族同士、王族同士の恋が実ることは極稀なこと。
だからこれは、そんなありふれた、幾百の恋物語の一つ。
歴史の波に飲まれて枯れた恋のお話だ。
ティオーナ・ルドルフォンが、はじめてシオン・ソール・サンクランドと出会ったのは、彼女がセントノエルに来た日のことだった。
従者のリオラと一緒に、貴族の令嬢たちにからまれていた彼女を、颯爽と現れたシオンが助けてくれたのだ。手を差し伸べる彼にエスコートされて、セントノエル島を巡った彼女は……、心が救われるのを感じた。
新入生歓迎ダンスパーティーで、その後の学生生活で、幾度も助けてもらううちに、ティオーナがシオンに好意を抱いていったことは当然のことだったのだろう。
手を取り合うと心が躍った。
そのまっすぐな瞳を見つめるだけで頬が熱くなった。
それはたぶん……ティオーナの初恋だった。
素敵な笑みを浮かべる少年だった。
優しく、気高く、純粋な人だった。
なにより、王族として……、力を与えられた者として、正しくあることを自分に課して、そうあれるのだと信じている……、そんな姿に、ティオーナは憧れた。と同時に、自国の貴族たちを嫌悪した。
ラフィーナ・オルカ・ヴェールガとの付き合いも、その思考に影響を与えた。
正しくありたい。強くありたい。人の上に立つ貴族として……。
幼くも純粋な、そんな願いがティオーナの胸に芽生えつつあった時、まるでその志を試すかのように大飢饉が大陸を襲った。
疫病の流行、財政破綻、民衆蜂起……革命。
父を暗殺されたティオーナは否応もなく、その波の中に投げ出された。
でも、怖いとは思わなかった。彼女には支えてくれる人たちがいたから……。
シオン・ソール・サンクランドは、ティオーナの怒りを共有し、帝国のために“正しいこと”を行ってくれた。
腐った帝室を倒し、大貴族たちを一掃した。
民のために、新しい帝国のために尽力してくれたのだ。
でも……、いつからだろう?
彼のことを遠く感じるようになったのは……。
傍らで見ていたティオーナは知っていた。
シオンの心に傷があるということ……。正義のためとはいえ、かつて学び舎を共にした皇女ミーアを処刑したのだ。傷にならないはずがない。
シオンは強いから、強くあろうとするから、臣下の前ではそんなところを見せない。あるいは、彼自身、その傷のことに気付いていなかったかもしれない。認めたくなかったのかもしれない。
でも、ティオーナは明確に、シオンが傷ついていることに気付いていた。
恐らく……それは、ティオーナがシオンのことが好きだったから。
ずっと見てきて、憧れてきた相手だったから……、気付くことができた。
「シオン王子の、支えになりたい……」
そんな気持ちが、ティオーナの心にはあった。
……だけど、ティオーナは踏み出すことができなかった。
シオンは大国の王子。自分とでは釣り合わない。それは厳然たる事実だった。革命の主導者として、ティアムーンの政権に関わるようになったとはいえ、自分とでは立場が違うのだ。
だけど……、それよりなにより、ティオーナの足を止めたもの……、それはシオンがミーアを殺したのは、ティオーナのためだったという事実だ。
父を皇帝一派によって暗殺されたティオーナ。その非道を正すため、シオンは剣を取り、命を懸けて戦ってくれたのだ。
それによって傷を負った彼に……、いったい、なにを言えば良いというのだろう?
自分のために傷ついた彼を、当事者である自分が癒す?
それは傷ついたシオンの心の隙を突く、卑怯な行いなのではないか?
自分の顔を見るたびに、シオンは幾度も、殺したミーアのことを思い出し、苦しむのではないか?
葛藤にがんじがらめにされて、ティオーナは一歩も動けなくなった。
ただ、恋慕の赴くままにシオンのもとに駆け寄れるほど、ティオーナは子どもではなかった。
革命後の忙しさも手伝って、ティオーナはすっかり考えることをやめていた。
そうして、サンクランドに帰国したシオンとはそれっきり疎遠になってしまった。
連絡は取りあってはいたけれど、そこには、かつてのような親密さはなくなっていた。
しばらくして、シオンが国内の貴族の娘と婚儀を結んだことを聞いた。その時ですら、ティオーナは悲しいとは思わなかった。
ただ……、胸を緩やかに締め付ける寂しさとともに、シオンと結ばれた女性が、彼の傷を癒すことができる人であることを、心から祈った。
それはミーアの死が歪めてしまった淡い恋心の、一つの結末だった。
「…………あっ」
そうして……、ティオーナは目を覚ました。
目覚めに特有の、ぼんやりとした頭で、つい先ほどまで見ていた夢のことを考える。
忘れてはいけない夢だったような気がして……、その形が崩れる前に、懸命に、手を伸ばして掴もうとするけれど……。見る間に、それはあっさりと消え去り、後に残るのは、何とも言えないもやもやのみだった。
「……変な夢……」
ベッドの上、半身を起こして……、つぶやく。
細かいことは覚えていないのだけれど、それでも、それだけはわかる。
とても奇妙な夢で、ひどく大それた夢で……。でも……。
ティオーナは、そっと胸を押さえる。そこにかすかな焦燥と、消しえない切なさを見つけて、戸惑う。
せっかくの、安らかな昼寝の時間だったのに……、気持ちはまったく休まっていなかった。
「慣れない場所で寝たから……かな」
ミーアたち一行がランプロン伯邸に来てから、三日が経っていた。
ドレスに着替え、来客用の部屋を出たところで、ちょうど、同じように部屋から出てきたミーアと鉢合わせになった。
「あっ、ミーアさま……」
夢の中、悪役として処刑された皇女、ミーア・ルーナ・ティアムーンは……、なぜだろう、口をアワアワさせながら、部屋から出てきた。