第六十六話 バシャガイドミーア
「ふぅむ……」
馬車の中に、ミーアの唸り声が響く。
皇女伝の記述を思い出して、ミーアは憂鬱な気分に浸っていた。
「あら? どうかされましたの? ミーアさま」
ふと視線を上げると、そこには心配そうに、こちらを覗き込むエメラルダの顔があった。
その後ろでは、ティオーナやシュトリナ、ベルまでもが心配そうな顔で見つめている。
「ああ、いえ、なんでもありませんわ。昨夜は、あまり寝られなかったので、少し眠たいだけですわ。ふわぁ……」
言っていて、あくびがこぼれてしまう。
そうなのだ、昨晩はとても大変だったのだ。
グリーンムーン家の馬車を二台連結させ、そこに、ミーア、エメラルダ、ティオーナ、ベル、シュトリナの令嬢たちに、アンヌ、リオラ、ニーナの従者勢も集まって、夜通しのガールズトークで大いに盛り上がったのだ。
リオラの森にまつわる怪談や、ティオーナの、決して入ってはいけない廃村の話、シュトリナの、記憶にすら残せないぐらいの恐ろしい話……などなど。
もぐもぐお菓子を食べながら、興味深げに聞いているベルとは違い、ミーアは心底から震え上がった。こんな時に頼りになるアンヌは、残念ながら、ニーナと従者トークで盛り上がっていた。
ということで、ミーアが寝不足なのは、本当のことであった。
しかし、実のところミーアが気鬱になっているのは、そのせいではなかった。
――たしか、もう少し北上したところにある村の近くで、商隊を襲っている盗賊団と戦闘になった、と書かれておりましたわ。それで、敵に討ち取られた、と。
旅は、ここまで順調に、計画通りに来ていたのだが……。
――この馬車の故障は予定外でしたわ。このまま予定通りのコースを進んでいたのでは、間に合わなくなりますわ。くっ、仕方ありませんわ。近くの町でお土産を買うのは諦めて……。
すっかり、バシャガイドさんのようになっているミーアである。
ともあれ、寄り道をしたのでは間に合わないから、と泣く泣くショッピングの予定を改めようと考えていた、まさにその時のことだった。
こん、こん……と。
馬車のドアがノックされたのだ。
「失礼いたします。ミーア姫殿下、よろしいでしょうか?」
現れたのはサンクランドの護衛隊の隊長だった。彼は、エメラルダを招待した貴族、ランプロン伯から派遣された兵士だった。
サンクランド王国の常備軍は大別すると二つに分けられる。
一つは軍全体の半分を担う王軍、もう一つは、各地の貴族の私兵団である。
今回、エメラルダのために派遣されてきたのは、ランプロン伯の私兵であるという。
深々と頭を下げる隊長に、ミーアはニッコニコと笑みを浮かべる。
「あら、隊長さん、警備お疲れさま。なにか御用かしら?」
優しい声をかけられた隊長は、少しだけ驚いた様子で目を瞬かせた。
はて? と首を傾げるミーアは、無理やりエメラルダについてきたわがまま姫という設定を完全に失念していた。
『わたくし、エメラルダさんのお友だちの、ミーア・ルーナ・ティアムーンですわ!』
などと自己紹介した時の、今にも泣きそうな隊長の顔は、しばらくは忘れられないだろうな、と思っていたのだが……。必要のないことはコロッと忘れるミーアなのであった。
「実は、近くを商隊が通りかかったようなのですが……」
「ほう、商隊……ですの?」
「はい。王都に向かっている途中だそうで。いかがでしょう? 途中で買い物をする予定でしたが、ここで、商人から直接に、買い付けを行うというのは……。出発の準備には、まだ時間がかかるでしょうし……」
「なるほど……、それは悪くないですわね。ちょうど退屈していたことですし……」
ミーア的には、町で買う予定であった、サンクランド名物のお菓子や食べ物が買えるならば文句はない。
それに、サンクランドと言えば、銀細工品も有名だ。馬車の中で退屈していた令嬢たちも、楽しめるのではないだろうか。
――商人に扮した賊ということも、考えられなくはありませんけれど……。
その点に関しては、ミーアは心配していなかった。
なにしろ、護衛を担当しているのはディオン・アライアである。あの、ディオン・アライアである。笑いながら金属を両断できるあの恐ろしい男なのである!
彼の目の届くところで、凶刃をふるうことは、とてもではないが不可能だろう。
恐らく知らせに来たのがサンクランドの側の隊長であることを考えると、ディオンのほうは商人たちを見張っているのではないだろうか。
――それに、ルードヴィッヒも同行しておりますし……、万に一つも危険はないものと判断できますわね。
などと思いつつも、
「どうかしら、エメラルダさん?」
念のために、今回のメインゲストであるエメラルダに聞いてみる。っと、
「いいですわね! サンクランドの商品、気になりますわ!」
エメラルダも乗り気のようだった。
「ふむ、タイミング的にも、ちょうどいいかもしれませんわね」
などと、のんきにつぶやくミーアは……気付いていなかった。
シオン・ソール・サンクランドが死亡した時の記述のこと。
彼の命を奪う盗賊団……それが襲っていたものが、はたしてなんであったのかを……。