第六十五話 帝国の叡智の深淵
「それから、収穫感謝祭は佳境を迎えるのだが……、そこでミーアさまは舞を披露されてな」
ルードヴィッヒは、静かに目を閉じて、あの時の光景を思い出す。
「あれは、なんとも素晴らしきものだった。まるで、ペルージャンとティアムーンとの、新しい関係を示しているかのような……。ミーアさまのダンスの技量が高いことはお聞きしていたが、まさか、あそこまでとは……」
ちょっぴり陶酔した口調で言うルードヴィッヒ。どうやら、少し前に飲んだワインで酔いが回ってきたらしい。
そんな、ちょっと素面じゃないルードヴィッヒに、ガルヴが深々と頷いて……
「舞には、心根が表れるとも言われる。人々の安寧を祈願するミーア殿下の想いが、舞を清らかに、美しくしたのだろう」
もっともらしいことを言った!
威厳のある師の言葉に、弟子たちは「なるほど……」と納得の頷きを見せる。
「はい。まさに、そのような舞でした」
そして、ルードヴィッヒは、その波に乗る。波乗りミーアの右腕の面目躍如である!
「そして、舞が終わった時にペルージャン国王、ユハル陛下が宣言された。ペルージャンは、ミーア姫殿下と信頼関係を結ぶと……」
「だが、それでは、良いところはペルージャン国王に持っていかれてしまったような……」
「いや、ミーアさまは、殊更に功を誇る必要を覚えなかったのだろう。それよりも、ペルージャンの信頼を重視なされたのだ」
あの時の静かなる興奮を思い出し、ルードヴィッヒは身震いする思いがした。集った民の目に宿る希望の光……、歓喜の声……。それを見て、満足げな顔をするミーア。
あれは、生涯忘れえぬ光景であったと、ルードヴィッヒは改めて思う。
「けれど、ミーア姫殿下の狙いは、それだけではなかった」
「なんだと? それはどういう意味だ?」
「これは、あくまでも俺の推理なのだが……」
状況証拠から組みあがる予想。
複数の国をまたがる食糧の相互援助という壮大な構想。
際限なく膨らんでいく妄想。
ルードヴィッヒの披露したメイスイリに、賢者ガルヴの弟子たちは……、少壮気鋭の能吏たちは……、無邪気な子どものように湧き上がる!
「なんと……、フォークロード商会だけでなく、かの大商人シャローク・コーンローグを巻き込んでとは……」
以前、シャロークと会ったことがある者は、かの金の亡者の変容に驚愕する。
とてもではないが、そのような慈善活動に尽力しようという人間には見えなかったのに……、と、しきりに首を傾げている。
「あらゆる者たちが、ミーアさまのパン・ケーキ宣言のもと、一つに固まっていった……、そのような印象だった」
だいぶ陶然とした口調でルードヴィッヒは言った。先ほどまで、なみなみと注がれていたワインは、すでに無くなっていた!
そんな、だいーぶシラフじゃないルードヴィッヒに、賢者ガルヴは深々と頷いて、
「ふむ。多くの人間の心を動かす言葉はたしかに存在する。ミーア姫殿下のお言葉には、力があるということだろう」
またしても、もっともらしいことを言った!
師の含蓄ある言葉に、弟子たちは納得の頷きを見せる。さらに、その中の一人が、
「ルードヴィッヒ……。その仕事、ぜひ、俺にも関わらせてもらいたい」
名乗り出る!
能力はあるが、それゆえに使いどころを見つけえぬ者たち。そんな彼らにとって、帝国の叡智の示した“未だ見たことのない組織のありよう”は、とても魅力的に見えたのだ。
「ああ、行ってくれるか。ことの経緯から、帝国から人材を出さないわけにはいかないと思っていたんだ」
他にも数名、興味を示した者がいたため、ルードヴィッヒは資料の提供を約束する。
「小麦の品種改良にも人材を割かねばならんだろうが……。その道に詳しい者は軒並み帝国に絶望して国外に行っていてな。呼び戻しておるんじゃが……、一番頼りになりそうなのは、今、海を越えていてな……」
苦い顔をするガルヴにルードヴィッヒは首を振る。
「できる限りのことをするしかないでしょう。ミーアさまの発想についていくのは、我々でも難しい」
その言葉には、多くの者が頷きを返すばかりだ。
「それにしても、恐るべき方だな。ミーア姫殿下は……。これほどの事態、人の身に予想できるものなのだろうか?」
「すべては計算の内っすか。恐ろしくすらあるっすね」
そんなことをつぶやくジルベールに、他の者が笑った。
「なんの。悲観することもあるまいよ。むしろ、すべてが何の計算もない偶然であったほうが恐怖だ」
「ふむ、言われてみるとそうっすね」
そうして、一転、和やかな笑顔が室内にあふれた。
……彼らが真実を知って、その笑顔が凍り付く日が来ないことを願うばかりである。
「とまぁ、そんな形で我々は備えを進めているわけだが……」
「着々と、勢力固めに励んでいるわけか」
「ああ。だが、時間は敵にとっても平等に進んでいる」
「なるほど……。万全の体制が築かれつつある中で、敵は切り崩しにきたというわけか。一番、崩しやすいところを」
「当然のやり方だな。貴族とは保守的な生き物だ。あの冬の日、ミーアさまが紫の衣を身にまとってから、それなりの時間がたった。反感を抱く者たちが動き出してもおかしくはないさ」
そう言って、ルードヴィッヒは眼鏡を押し上げる。
「ということは、令嬢のほうはともかく、グリーンムーン公爵本人は、姫さんが女帝になることに反対であると?」
「ミーアさまが帝位を継がれないのであれば、自分の子が皇帝になる目も出てくるからな。反対する理由はあっても、支持に回る理由はないが……、どうだろうな」
と、ここで、ルードヴィッヒは腕組みする。
「案外、娘に良い結婚相手をあてがってやっただけのつもりかもしれない。人の心はわからないものだ。何を考えているのか、得体が知れなく思えても、案外、くだらないことを考えている可能性だってあるさ」
帝国の叡智の深淵に届いてしまいそうなことを言いつつ、ルードヴィッヒは笑った。
「なんにしろ、我々がすべきことは、あらゆる敵対者からミーアさまを守ることだ。蛇にしろ、反女帝派にしろ、降りかかる火の粉はすべて払いのけなければ……ん? どうかしたのか?」
突如、立ち上がったディオンにルードヴィッヒは眉を顰める。
「いや、なに……。何者かが近づいてきた音が聞こえたものでね」
それからディオンは、腰の剣に軽く手を置いて……、
「ともあれ、足音からすると大した相手じゃなさそうだ、やれやれだね」
肩をすくめながら、ディオンは馬車を出た。