第六十四話 熱狂的ファンの集い
「やれやれ、まいったな……」
ルードヴィッヒは、馬車の中から、外の景色を眺めた。
のどかな田舎道、空から降り注ぐ日の光は柔らかな朝の日差しから、力強い昼のものへと変わろうとしていた。
本来ならば、とっくに出発していなければならない時刻であるのだが、彼の乗る馬車が動き出す様子はなかった。
ふいに、馬車の扉を開け、ディオン・アライアが入ってきた。腰につけていた剣を外して、どっかりと、椅子に腰かける。
「まだ、修理に時間がかかりそうだ。やれやれ、こんな場所で足止めとはね……」
ミーアたち一行の馬車がトラブルに襲われたのは、今朝方、宿泊した村を出発してすぐのことだった。一台の馬車の車輪が壊れてしまったのだ。
その一台を後に残して先を進もうという話もないではなかったが、壊れたのがグリーンムーン家の高級な馬車であったことなどもあり、修理を終えてからの出発になったのだ。
幸い、あたりに遮蔽物はなく、接近してくる者があれば察知しやすい。待機場所としては、悪くないように思えた。
「それで、異常は?」
ルードヴィッヒの問いかけに、ディオンは小さく肩をすくめた。
「異常なしだよ。まぁ、皇女専属近衛隊もいるし、グリーンムーン家の護衛も頭数は揃ってる。それに、サンクランドのほうも、さすがは四大公爵家の令嬢を迎えようというのだから、それなりに準備はしてるみたいだ。単なる賊じゃ太刀打ちできないどころか、手を出そうとも思わないだろう」
それから、ディオンはそっと外の景色に目を細める。
「たぶん、姫さんもそのことはわかってるんじゃないかな? 警戒すべきは、野盗や賊じゃない。兵士が何人いたとしても、対処できない敵なんだって……」
ルードヴィッヒは、無言で頷いてみせる。
「たしかに、例の狼使いが逃亡していったのは、方向的にはこちらのほうだったな」
混沌の蛇の刺客、狼使い。ミーアを襲った男が、ルードヴィッヒが手配した追手を振り切って姿をくらましたのは、サンクランド近郊だった。
そして、それ以降、かの暗殺者は姿を見せていない。
「あいつが出てきたら、並みの護衛じゃ太刀打ちできないからね。十重二十重に囲んで、ようやく対処できるぐらいだし、あのオオカミも厄介だ。姫さんの懸念はよくわかるよ」
「そうか。ともかく、護衛のほうはよろしく頼む。これでミーアさまになにかあったら、みなに合わせる顔がない」
「例の女帝派とかいうお仲間のことかい?」
「ああ。そうだ、そういえば、ジル以外のメンバーは紹介してなかったかな。いずれ紹介したいと考えているのだが……」
そうして、ルードヴィッヒは思い出した。
帝都にて、彼は自らの仕事の引継ぎのため、何人かの女帝派のメンバーと会っていたのだ。
その日、ルードヴィッヒは会合場所への道を急いでいた。そこは、帝都の一角。今は使われていない館の一室だった。
「よう、ルードヴィッヒ。ペルージャンへの旅は、上々だったようだな」
部屋に入ると、一番にバルタザルが話しかけてきた。彼のほかに、ジルベールをはじめ、十人前後の者たちが集まっていた。
「ああ、バルタザルか。何を慌てているんだ?」
応じつつ、ルードヴィッヒは小首を傾げた。基本的に、バルタザルは冷静な男だ。滅多なことでは、このように声を荒げるようなことはないと思うのだが……。
「これが落ち着いていられるか! ミーア姫殿下はペルージャンとの条約の改定を匂わせたというじゃないか」
「ああ。そうだ。ペルージャンとの間にある不平等条約を変えることを示唆された。それをもって、ペルージャンと新たな関係を築きたいと……、ペルージャンの信頼を得たいと、そうおっしゃったのだ……。無謀だと思うか?」
上目遣いに見つめてくるルードヴィッヒに、バルタザルは、なんとも言えない顔で肩をすくめた。
「そうは言わんが……、姫殿下の本気の熱意には、いささか気圧されるものがあるな」
「気圧されるなんてもんじゃないっすよ。詳しい話を……」
「まぁ待ちなさい。そう慌てるものではあるまい」
口々に、ルードヴィッヒに質問を投げかけようとする者たちを、静かな声が制する。
部屋の奥、穏やかな笑みを浮かべる老人……、賢者ガルヴの姿を見て、ルードヴィッヒは深々と頭を下げた。
「お久しぶりです。我が師」
「壮健そうでなによりじゃ、我が弟子、ルードヴィッヒよ」
「師匠も、お元気そうでなによりです」
そう言ってから、ルードヴィッヒは師の服装を興味深そうに見た。
以前、森の中で見たのとは違い、今の彼は、高級官吏が着るような、仕立ての良い服を着ていたのだ。
「ん? おお、これか。ふふ、さすがにあの格好では学園長の仕事は務まらぬのでな」
そうして、ガルヴは穏やかな笑みを浮かべた。
そのことに、ルードヴィッヒは安堵のため息を吐いた。
ガルヴは放浪の賢者。一所にとどまることを好まない性格であることから、いささか心配ではあったのだが、どうやら杞憂だったらしい。
「ああ、そういえば、ペルージャンでは、アーシャ姫殿下にも助けられました。あの方も、師匠の教えを受けておられるのですか?」
同じく、ミーア学園で教鞭をとるアーシャの話を振ってみる。と……、
「はは、かの姫は、なかなかに聡明な方じゃ。わしなどに教えを請わずとも、しっかりとご自分の考えで、真実に行き着くことができるじゃろう」
「なるほど……」
「さて……それでは改めて聞かせてもらおうか。ミーア姫殿下、帝国の叡智がペルージャンで、どのように振る舞われたのか……」
そうして、部屋の奥へと招かれたルードヴィッヒは、椅子に座り、ワインで喉を湿らせて一呼吸。それから、ゆっくりと口を開いた。
「ミーアさまが初めにされたこと、それは、果物の収穫を手伝うことでした」
初めは、ミーアが満喫したルビワ狩りのエピソードからだ。
「なるほど。ともに、額に汗することで、民の信頼を得るか……。ペルージャンの姫君は、農民の先頭に立って農作業に勤しむと聞くが、かの国のやり方に倣ったということか」
「それだけではなく、その場で供されたルビワの実を食べられました」
それを聞き、一人の男が驚きの声を上げた。
「ルビワはたしかに良い味のする果物だが……、あれは果汁で手が汚れる。高貴な身分の令嬢には好まれない食べ物だが……」
ミーアのことがまだ理解できていない同輩に、先達として、ルードヴィッヒは優しく声をかける。
「ミーアさまは、そのようなことは気にされない方なのだ」
そう、ミーアはたしかに、甘い果物を食べるためならば、手が汚れることなど厭わない人間である。ルードヴィッヒはなにも間違ったことは言っていない。言っていないのだが……。
「労働のお礼の気持ちとして……、ともに額に汗した親愛の証として供されたものを素直に受け入れること……。ペルージャンのことを属国と見下している中央貴族の者たちには、とてもできないことだ……」
なぜだろう……、なにかが、ズレていく……。
「それから、黄金の坂のことがあった。みな聞き及んでいるだろうか? ペルージャンが帝国貴族に対してするもてなしの話……。師匠はご存知かと思いますが……」
「ああ……王都へと続く坂道に収穫した小麦を敷き詰め、その上を馬車で通らせる愚かな風習じゃ。恐らく、帝国貴族のアホウが言い出したことなのじゃろうが。相手の誇りを折り、屈服させる、ただそれだけの意味しかない行為じゃな」
吐き捨てるように言ってから、ガルヴはルードヴィッヒのほうを見た。
「さりとて、それを無碍にもできまい。姫殿下はどのように応じられたのか?」
興味深げに視線を向けてくるガルヴ。ルードヴィッヒは、わずかばかり得意げに答えようとして……、
「あ、俺、わかったっす。馬車から降りて坂道を上ったんじゃないっすか?」
その前にジルベールが口をはさんだ。その答えに、周りの者たちも、納得の頷きを見せる。
「なるほど。それは妙案。たしかに、馬車が通ってはせっかくの小麦が台無しになるが、足で踏んでいくだけならば、そうはならない。相手の心遣いを無駄にせず、さりとて、プライドを傷つけすぎることもない、落としどころとしては最善策だ!」
少壮気鋭の能吏たちの出した答えに……、けれど、ルードヴィッヒは首を振り、
「惜しいが、それでは半分だ。ミーア姫殿下は……、靴を脱ぎ、裸足になって坂を上られたのだ」
「なんと! 裸足にっ!?」
「馬鹿なっ! そのようなことを、皇女殿下がっ!?」
ミーアの熱狂的なファンたちは盛り上がり……、ルードヴィッヒの自慢話は続く。