第五十八話 エンプレス・ミーア号(大船)に乗った気分で……
「ミーアさまっ! 聞いてくださいましっ!」
部屋に入ってきて早々、エメラルダは声を上げた。
「まぁまぁ、どうしましたの? エメラルダさん、そんなに慌てて……」
などと言いつつも、ミーアはチラリとエメラルダの手元を見た。
……お土産は、なかった!
見る見るうちに、しょんぼりしぼんでいくミーアであったが……、
「ミーアさま、エメラルダさまから、お土産の焼き菓子をいただいておりますので、すぐに準備いたします」
「まぁ! そうでしたのね、いつも申し訳ありませんわね」
アンヌの言葉でシャキッと復活する。ミーアのテンションは甘いお菓子の有無にかかっているのだ。
「おほほ、ちゃんと持ってきてますわよ。もっとも、商人がお土産に、と持ってきたものなのですけど……」
ちょっぴり申し訳なさそうな顔をするエメラルダだったが……、ミーアは逆に感心する。
要するにエメラルダは、無駄遣いするなというミーアの言葉を守っているのだ。だからこそ、高級なお菓子を買ってきたりということはしなかったわけで……。
「さすがはエメラルダさんですわ……無駄遣いは慎むようにと言ってありましたものね」
ミーアにとって、甘いものに貴賎なし。どのような経緯で入手したものかなど、論ずるに及ばず。
節約して手に入れたのであれば、むしろ評価の対象にすらなるというわけである。
さて、ミーアとエメラルダが椅子に座り、目の前のテーブルにお茶菓子が並んだところで、
「聞いてくださいまし! ミーアさま、お父さまったら、酷いんですのよ!」
改めて、エメラルダが言った。
「まぁ、どうなさいましたの? たしかエメラルダさんは、御父上と仲がよろしかったと思いますけれど……」
などと、話半分に聞きつつ、ミーアの注意は、すでに焼き菓子のほうを向いていた。甘い砂糖の香りに、鼻をひくひくさせていると……、
「許せませんわ。お父さま、私に縁談するように、なんて言いますのよ!」
エメラルダのそんな声が耳に入ってきた。
「縁談……、あら……、そうなんですのね。それは、めでたいことではありませんの」
貴族の女性にとって、縁談は重大なものだ。
エメラルダはまだセントノエルの学生ではあるのだが、年齢的に考えれば縁談話の一つや二つ来てもおかしくはないお年頃である。
「めでたくなんかありませんわ! 相手は、サンクランド王国の貴族だっていうんですのよ?」
「あら……サンクランド王国……」
ミーアは、ぽつり、とつぶやいた。
「あっ、もちろん、私が嫁いで行くことになっても、ミーアさまとの約束は……」
と、慌てた様子のエメラルダだったが、ミーアは、うつむいたまましみじみと言った。
「そう……、帝国ではないんですのね。寂しくなってしまいますわ」
うつむいたまま……、というか、やや視線を下に向けて……焼き菓子に目を向けたまま、ミーアは言ったのだ。
なにせ、ミーアはエメラルダが持ってくるお菓子とお茶会を楽しみにしているのだ。それに加えて、なんだかんだでエメラルダは気兼ねなく会話ができる貴族令嬢、親戚のお姉ちゃんなのである。
サンクランドに嫁いでいくのであれば、今ほど頻繁にお茶会はできないだろうし……、ついつい寂しく思ってしまうミーアである。
「ミーアさま……」
ふと見ると、エメラルダが、なぜか、瞳をウルウルさせていた。
はて……? などと首を傾げるミーアに、エメラルダは力強く言った!
「ええ、ええ、もちろん、こんな縁談断ってやるつもりでしたわ! 親友のミーアさまを置いて、外国に嫁ぐなど、とても考えられませんわ!」
拳をギュッと握りしめて、決意のこもった口調で言った!
「え? や、そんな無理しなくても大丈夫ですけれど……」
「いいえ、決めましたわ。すぐにでもお断りの連絡を入れてやりますわ。サンクランドのお城でのパーティーにもお呼ばれしておりますけれど、それもきっぱりとお断りを……」
「ん? 今、なんとおっしゃいましたの……?」
ふと、聞き捨てならない単語を耳にして、ミーアはエメラルダへと視線を向ける。
「ええ、実は先方からお誘いを受けておりますの。嫁いできたら、王家ともお近づきになれるから、と……。その証として、サンクランド王家のパーティーに誘われましたの。でも、縁談を断るのであれば、別に……」
「あら? それはもったいないですわ。せっかくのサンクランドでのパーティーなのですから、行ってきたらいいですわ」
ミーアの脳裏に、今、一つの考えが形を成そうとしていた。
「なんでしたら、わたくし、一緒に行って差し上げますわ」
シオンを助けるための最善手はなにか?
それは彼を護衛すること。ディオン・アライアをシオンのそばにいさせることである。
だが、もし仮に、一度の襲撃からシオンを守ったところで、はたして、運命は変わるだろうか?
――たぶん、そうはなりませんわ……。
ミーアの直感が告げていた。
冬以来、すっかり大人しくなっていた『蛇』だが、そう簡単に活動を止めるなどとは思えないミーアである。
もしも、シオンの暗殺が、連中の仕業であるとするなら……。
――一度、防いだぐらいでは、その陰謀は止まりませんわ。きっと、また皇女伝に、形を変えたシオンの死が描き出されるのですわ。
そして、それを帝国の地で確認したところで、ミーアには手の打ちようがない。
ならば、どうするか? 答えは決まっている。
――わたくしが、サンクランドに赴くのが確実ですわ。護衛にディオンさんを引き連れて。それと……そうですわね。毒の専門家であるシュトリナさんも連れて行くのがよろしいかしら? 暗殺といえば毒ですし。それとあちらでの生活の時、近くで守ってくれる方がいると良いですわね。ティオーナさんとリオラさんにも声をかけて……。
普通に考えれば、突然に帝国皇女であるミーアがサンクランドに赴くのは難しい。護衛の問題もあるし、あちらとしてもいろいろと準備があるだろう。
先のペルージャンの場合には予定を少し早めただけで、もともと訪問することになっていたから、なんとかすることができたし、レムノ王国を訪れた時には、そもそも無茶を通したのだ。
けれど、今回の場合は、秘密裏に行って帰ってくるというわけにもいかない。シオンのそばに行くためには、身分を明かす必要があるだろう。
そこで、
――帝国皇女ではなく、四大公爵家の令嬢の一行として行くならば、実現できるのではないかしら?
なにしろ、エメラルダはティアムーン帝国の令嬢の中では、ミーアに次ぐVIP、星持ち公爵令嬢である。
そんなエメラルダが、もともと行く予定になっていたのだから、それなりの準備を整えていただろう。それをほんの少し強化してもらえれば良い。
そう考えれば、実現は、そこまで難しくはないのではないか……などとミーアは思ったのだ。
実際には、かなりの無茶が必要になるわけだが……、文官たちの悲鳴などミーアの耳には聞こえないのだ。
そうして、ミーアの思考は徐々に皮算用へと向かっていく。
――ふむ……、シオンを助けてやって、サンクランド王家に恩を売っておくこともできるかもしれませんわ。そうなれば、女帝になる時に役に立ちますわ!
うむうむ、と腕組みしつつ頷くミーア。
「そういうわけですから、ぜひ、エメラルダさん、わたくしも同行を……はぇ?」
と、そこで、ミーアは気付く。
エメラルダが、再び瞳をウルウルさせていることに……。
「うう、ニーナ……、みっ、ミーアさまが、私のために、直接、断りに行ってくださるって……」
「はい。よかったですね、エメラルダお嬢さま」
メイドのニーナがいつも通り、感情のこもらない声で言って、そっとエメラルダにハンカチを渡した。エメラルダは、それで目のふちを押さえてから、
「ありがとうございます、ミーアさま。私のために、わざわざ……」
などと、大変、殊勝なことを言った。その喜びように若干罪悪感を刺激されたミーアは、
「え? あ、ええ、もちろんですわ。エメラルダさんは、わたくしの親友ですもの。大船に乗った気分でいていただいても大丈夫ですわ!」
豪語するのであった。
かくて、エメラルダとシオンの未来を乗せたエンプレスミーア号(大船)は船出した。
波乗り船長ミーアが嵐を上手く乗り越えられるか……、今の時点で知る者は一人もいなかった。