第55,5話 小麦秘話ヒストリー~幻の大飢饉~
歴史に「もし」は存在しない。
それでも、空想の翼を広げてしまうのが人間というものである。もしもあの偉人が未だに健在ならば、もしも、あの戦争の勝者が別の国だったら……。そんなたくさんの「もし」の一つに、学者たちを青ざめさせるものがある。
もし、あのタイミングで寒さに強い小麦が誕生しなかったら、どうなっていたか……?
空前絶後の大飢饉が、もしかしたら、大陸を襲っていたのではないか……?
現在、大陸で広く収穫されている小麦「ミーア五号」だが、その元となる原種の小麦が、アーシャ・タフリーフ・ペルージャンとセロ・ルドルフォンの二人によって発見されたのは、大陸を寒冷期が覆う、その初期であった。
帝国北方、ギルデン辺土伯領にて、その小麦を見つけた二人は、それを元にして品種改良に着手する。その結果、発見から二年後に「ミーア二号」が開発され、市場に出回ることになるのだが……、当初、その小麦は不評だった。
「あーあー、勘弁してもらいたいな。まったく、なんで小麦がこんなに高いんだ?」
帝都の市場にて……、一人の男が嘆きの声を上げた。
市場に並ぶ小麦の価格は、例年の1.5倍ほどだった。買えないほどではないにしても、文句の一つも言いたくなろうというものである。
「どうやら今年も不作だったらしいぞ。各地で不足の傾向にあるとかで、値段が上がることはあっても、当面下がることはないんだそうだ」
「やれやれ、たまらんなぁ……。おっ、なんだ、こっちの小麦は安いじゃないか」
ふと、男が目をとめた小麦袋、そこに書かれた値段は、例年の小麦の価格と変わらないものだった。
「ああ、そいつは政府から供給されてる小麦だよ」
「政府から……?」
怪訝な顔をする男に、商人は苦笑いを浮かべた。
「かなりの量が流通してるんだが……、質がね」
「いまいちなのか?」
「パンにすると、ちょっとね……。どうも粘り気がありすぎて……、焼くと固いし、味もね……」
商人の言葉に、男は呆れ顔を見せた。
「おいおい、何を考えてんだ、お偉いさんは。こんなもの市場に流して……」
不平屋の男は、いつも通り毒を吐こうとして……ふと、その小麦袋につけられた名前に目をやる。
「ミーア二号小麦……? なんだい、こりゃ」
「ああ、その麦の名前らしい。なんでも、ミーア姫殿下の学園都市で造られた麦らしい」
「へぇ、ミーア姫殿下のね……」
不平屋の男の脳裏に、あの、気前の良い姫殿下の姿が思い浮かぶ。
あの冬の日、あの生誕祭で……。貴族たちによって供された食事。それをみなで腹一杯食べて、姫の誕生を祝いあった、楽しい思い出が瞼の裏に浮かんで……。
「そうか……。姫殿下が作った小麦なのか……」
ふっと、彼の頬が緩んだ。
「おや、どうかしたのかね?」
「いや、なんでもないよ……」
こんなことを言ってしまったら不敬罪になるだろう、と男は言葉を呑み込んだ。
ちょっぴり使い勝手の悪いこの小麦が、なんだか、あの姫殿下の姿に被る、などということを、口にしては……。
気前が良くて、でも、少しだけ抜けているような……そんな風に見えてしまった、あの姫さまが作った小麦なんだと……、そう聞いてすごく納得してしまったなどということを、まさか口に出して言えるはずもない。
「まぁ、けど、そうだよな。よくよく考えると、食いものがなくって飢えるより全然いいな」
男はそう笑って、ミーア二号を買った。
人々の反応は、おおむね似たような形だった。
あの、ミーア姫殿下の名前が付いた小麦なのだから、と。親しみをもって、その小麦は受け入れられていったのだ。
そんな状況を一変させる出来事が起きたのは、ミーア二号が出回り始めてほどなくした頃だった。
一人の忠義の男が立ち上がったのだ。
「ミーア姫殿下の名を冠した小麦の出来が悪いなどと、到底看過できることではない」
そう声を上げたのは、帝国一の料理の腕を誇る男、宮廷料理長、ムスタ・ワッグマンだった。
美味しい料理が作れないのは小麦が悪いのではない。料理法が悪いのだ、という信念のもと、彼は調理法の確立に取り組んだ。
パンに使うのに適さないというのであれば、別のものを……。
柔軟に、既存の料理法のみならず、様々な調理法を試した彼は、ついに完成させる。
ミーア二号に最適な料理法を。
ミーア二号は、焼いてはいけない。茹でるのだ……。
出来上がった、白くてモチモチしたものを、意気揚々と料理長はミーアのもとに持っていった。
そうして、一口食べたミーアが、あっさり放った言葉に、料理長は度肝を抜かれる。
ミーアは、言ったのだ。
「……これ、あの甘い豆のペーストと合いそうですわね」
少し前、フォークロード商会に依頼して、取り寄せていた甘い豆……。それが合うのではないかという発想は、料理長にはないものだった。
急ぎ、それを試した料理長は、そこに、自らの料理の完成を見る!
こうして、料理長withミーアの考案した料理は、満月団子、またの名をミーア団子と呼ばれ、人々の間に広く浸透することになった。
白くもちもちの食感の団子に、あまーい黒豆のペーストをかけた、その絶妙な味は、子どもから大人まで大人気だった。
その状況に、帝国の民はみな、首を傾げたものだった。
「おかしい……。小麦の不作で飢えるはずが……なぜ、我々は美味しい新料理を味わっているのだろう……」
と。
ほどなくして、アーシャとセロの手による品種改良の小麦「ミーア三号」「ミーア四号」が市場に出回り始める。二号よりは、より従来の小麦に近い性質をもった後発のミーアシリーズであるが、それでもミーア二号は人々の間で根強い人気を博すことになるのだった。
「ギルデン辺土伯に協力を求めていたこと……、セロ・ルドルフォンとアーシャ姫を送り、寒さに強い小麦を発見し、品種改良を進めさせたこと……、フォークロード商会に依頼して取り寄せていた甘い豆……」
五年前に起きた出来事を、一つ一つ書き出しながら、ルードヴィッヒは深々とため息を吐いた。
平穏を享受する人々は知らない。この帝国がどれほどの危機的状況にあったのかを……。
未然に防がれ、泡と消えた『幻の大飢饉』。
されど、ルードヴィッヒの目は、しっかりとそれを捉えていた。
「もしも……ミーアさまが行動されていなかったら……」
備蓄をしていなければ、遠方からの食糧輸送を確保していなければ、多くの餓死者が出ていたはず。
あるいは、食糧をめぐり周辺国との戦争に突入していたかもしれない。それは、双方の国力を疲弊させ、民をより苦しめることになったはず……。
「ミーアさまが、備蓄を取り崩してでも困窮する国を救うべきとおっしゃられた時には、お諫めするべきか、ずいぶん悩んだものだったが……」
結果として、ミーア二号小麦の出現により、食糧の不足は免れた。
小麦の品種改良に成功し、寒さに強い小麦を作ったと聞いた時、それがギルデン辺土伯の領地から発見されたと聞いた時、ルードヴィッヒは度肝を抜かれたものだった。彼の同輩たちも同じだった。
ミーアは帝国内のみならず、周辺国をも大飢饉から救ったのだ。
「大陸を悲劇で覆う大飢饉……、もしもミーアさまがおられなければ、それが起きていたかもしれない」
ルードヴィッヒは戦慄を禁じ得なかった。
歴史に「もし」はない。それでも、ルードヴィッヒは考えざるを得ない。
もし、この時代に、ミーア・ルーナ・ティアムーンという英才が現れなかったとしたら……、いったいどうなっていたのか?
歴史に「もし」はない。
だから、帝国に新しいスイーツが考案される以外の歴史は存在していない。
それでもなお、人は空想の翼を広げてしまうものなのだ。
もし、そうなっていたなら、どうなっていたか、と。
だが、いずれにせよ、幻の大飢饉を葬り去ったこの小麦が、長く歴史に刻まれることになるのは、間違いのないことのようであった。ミーア二号。それは帝国の叡智の名を冠した小麦だ。
帝国の叡智、すなわちそれは、帝国初の……。




