第四十九話 ペルージャンの夜
ミーアとの晩餐会を終えた、その日の夜のこと……。
ユハル王は王妃とともに、寝室にいた。
「先ほどは、あの商人が倒れてしまったので、曖昧になってしまいましたね……」
心配そうな顔をする王妃に、ユハルは首を振った。
「いや、恐らくミーア姫殿下は、我らに考えさせる時間を与えるつもりではないだろうか……」
ミーアには、あえてあの場面でシャロークを追う必要などなかった。
あの場で混乱がおさまった後、改めて、ユハルに聞いてくることもできたし、決断を迫ることで、圧力をかけることもできたはず。
にもかかわらず、ミーアはそれをしなかった。
「自分の申し出に絶対の自信があるということか……」
「いいえ、そうではないと思います、お父さま」
突然の声、と同時に二人の娘たちが姿を現した。
「アーシャ、ラーニャ……」
「失礼いたします」
二人の娘のふいの訪問に……されど、驚きはなかった。
なんとなくだが……話をしに来るような、そんな気がしていたのだ。
「お父さま、少しお時間、よろしいでしょうか?」
「そうだな……。私も、お前たちに話しておかなければいけないことがあったな……」
ユハルは、娘たちを部屋に招き入れると……、深々と頭を下げた。
「すまなかったな……。帝国との条約の件、お前たちには話していなかった」
ペルージャンとティアムーンとの間に結ばれた条約、それは、この国が始まった時に結ばれたものだった。
もともと、ペルージャン農業国は、肥沃なる三日月地帯にティアムーン帝国が興ったことに呼応して生まれた。
肥沃なる三日月地帯を占領した狩猟民族と、侵略され、農奴に貶められた農民たち。帝国の手を逃れた農民たちが、南方へと移り住み、作った国こそがペルージャン農業国だった。
いずれ、この地も帝国に併呑されるに違いないと考えたペルージャンの開祖は、先手を打ち、帝国にある取引を持ち掛ける。
この地を耕し、一定量の小麦を帝国のために作るから、自分たちの国の存続を認めてほしい、と……。
帝国の初代皇帝は、その願いを聞き入れた。
そこにどのような思惑があったのか、ユハルにはわからない。そんなことをせずとも、すぐに併呑して、農奴として使えばよかったはず……。
けれど、とにもかくにも、ペルージャンは独立を保障された。
以来、ペルージャン農業国は帝国に依存、隷属することで、国としての体面を保ち続けた。生かさず殺さず、帝国はペルージャンの農産物を低価格で搾取し続けたわけだが……。
それは、ペルージャンでは王族と、一部の者しか知らぬことであった。
なぜなら、もしも帝国に対する恨みが高まり、衝突が起きでもしたら、ペルージャンは終わるからだ。帝国がその気になれば、自分たちなど簡単に侵略されてしまう。
肥沃なる三日月地帯を追われた者たちの間では、特にその恐怖が強かった。
帝国に、侵略する口実を与えては、農奴に堕とされる。そうならないためには、帝国の怒りを買わぬように、なんとか、できる範囲でやっていくしかない。
歴代の王たちは、貧しさから脱却するための術を「帝国との条約改正」にではなく、「自分たちの農業技術の向上」に求めた。
そうして、帝国との始まりの条約は秘されるようになった。毎年の帝国との価格交渉は王家と一部の者のみが担当し、大部分の国民にはその数字は明かされていなかった。
それは、二人の姫たちも、また同じだった。ユハルは、条約の内容を秘して、帝国のことをお得意さまと、娘たちに説明していたのだ。
産業にとって重要な相手であると……。
一面それは真実でもあって、小麦以外の農産物も帝国は大量に買い上げていた。条約に縛られない農産物に関しては価格も、それなりではあったのだ……だからこそ、帝国に対する民の心理は微妙なところがあった。
「お前たちは、いずれは他国に嫁ぐ身。そう考えて、余計なことは教えぬようにしていたのだが……」
ユハルの言葉に、アーシャが小さく首を振った。
「今は、そのことについては、なにも言いません。それで、どうなさるおつもりですか?」
「さて、どうしたものか……な」
たしかに帝国との条約がなくなれば、大部分の土地は使えるようになる。今ある小麦を帝国以外の国に卸すか、もっと金になりそうな作物を作るか、なにかしらの方針が必要だった。
「小麦の縛りがなくなる代わりに、今までより帝国軍に頼れなくもなるだろう。より富むことはできるだろうが、それを守るための軍備は整える必要が出てくるだろう」
さすがに帝国に匹敵する軍備とはいかないまでも、他の周辺国と伍する程度には、兵力が必要となる。それは、当たり前の考え方だ。だが……、
「なにか、言いたいことがあるか?」
ラーニャの顔に、かすかな不満を見て取って、ユハルは言った。
言った直後……、自身の言葉に、ユハルは驚いた。
娘に意見を聞こうなどと……今までの彼ならば思いもしなかったことである。
――私もまた、ミーア姫に影響を受けているということか……。
だが、同時に興味もあった。
あの帝国の叡智……、一国を、ただ一度の晩餐会でここまで揺るがしてしまう少女のそばにいた娘たちが、いったいどのような答えを出すのか……。
ラーニャのほうも、父親の変わりようにわずかに戸惑いを見せたが、すぐに首を振ってから言った。
「それは……、この“ケーキのお城”を建てた、先人たちの思いに反することになると思います」
ラーニャが言うのは、子どものような綺麗事だった。
いつか来るかもしれない戦なき世界と、戦を視野に入れぬ城のおとぎ話。
子どもしか信じることのできない、夢物語。
にもかかわらず、その言には、なんの迷いもなかった。
その理由が、今のユハルにはよくわかる。
帝国の叡智であれば、そんな現実離れした未来でさえ、成し遂げてしまうのではないかという期待感が、ラーニャにそれを言わせたのだ。
だが、もしも……、もしもラーニャが信じるとおり、本当にそのような世界が実現可能であるならば?
はたして、ペルージャンの民として、取るべき正しき姿勢はなにか?
「我らは、大地を耕し、人々に食の恵みを届ける者。その誇りを捨ててはならないのではないでしょうか」
その言葉より滲むは、ペルージャンへの誇り。
この地に国を構えて以来、ペルージャンの民がなしてきたことへの、圧倒的な自負。
ラーニャがまとうのは光だった。
それは、余光だ。
黄金の坂を、帝国の叡智と隣り合って上ったラーニャもまた、叡智の輝きを受けて、まばゆいばかりに光を放っているかのようだった。
それを見たユハルは驚きに目を見開いて……、次の瞬間、わずかばかり笑みを浮かべた。
――ああ……、大きくなったのだな……。
つぶやいてから、改めて思う。
ラーニャも、アーシャも、ペルージャンの姫として、立派に自分のなすべきことをしようとしている。
そのような中で、自分がすべきことはなにか……。
「お父さまは、ご存知ですか? ミーアさまが、セントノエル学園の入学式で、どんなお話をされたのか……」
黙考するユハルに、ラーニャは言った。
ミーアが入学式の際に示したもの、パン・ケーキ宣言の話……。
「飢饉の時には互いの国で助け合う、か。ミーア姫殿下以外の者が言えば、正気を疑ってしまいそうなことだな……」
「私は、ミーアさまは、あらゆる意味で型破りな方だと思っております」
ラーニャに続き、アーシャが語りだした。
「あの方は自国の民のみならず、大陸の、他の国の民のことも、等しく大切に思っておられる。ミーアさまに講師へと誘われた時、私はお断りするつもりでした。にもかかわらず、お話を受けたのは、私が知ったからです。私が目指していたものは、ペルージャンの民が飢えないことではない。それでは不足なのだ、と……」
まっすぐに、こちらを見つめてくるアーシャに、ユハルは息を呑む。
中途半端な父への反発が隠しきれていなかった、かつての娘の姿はすでになく……。そこにあるのは、大きな役割を負った若き研究者の姿だった。
「あの日、ミーアさまに見せていただいた光……、パン・ケーキ宣言は、まさに、その続きにあるもののように感じます」
「パン・ケーキ宣言……、それに寒さに強い小麦と告げ知らせる者の必要……。我ら、農業の国、ペルージャンの解放……新しき歩みか……。なるほどな……、ミーア姫殿下が我らにお求めのものがようやくわかったような気がする。そして、お前たちがなにを言いたいのかもな……」
そうして、ユハルは快活に笑った。
それはいつもの卑屈な笑みではない。なんとも子どもっぽい笑みだった。
「なるほど、それは……面白い」
せっかく帝国から自由になれるというのに、ミーアの思惑に乗ってしまうことは、あまり意味がないことなのかもしれない……が、
「否、我らは自由になるのだ。ならば、過去の因縁に縛られるのもまた愚か。ならば……、ミーア姫殿下の考えに乗ってしまうのも、また一興……」
ユハル王は、久しく感じることのなかった心の高ぶりを覚えていた。
それは、幼き日に感じた悪戯をたくらむ子どものような気持ち。
「ならば、ミーア姫殿下には、やってもらいたいことができた……」
そんな父の様子に、ラーニャとアーシャは、瞳を瞬かせるのだった。