第四十八話 キノコ女帝ミーアのエール
実のところ……、ミーアは、すでにシャロークに攻撃する気はなくなっていた。
ここに来るまでには、どうやって心を折ってやろうかと考えを練っていたミーアであるのだが……、ぐったりと横たわるシャロークを見て、その気持ちはすっかり失せてしまった。
いかに敵で、悪徳商人とはいえ、弱っている人間を足蹴にできるほどの胆力はミーアにはない。
それに……、ふと思ってしまったのだ……。シャロークは……自分ではないか? と。
そこに横たわる男は、節制せず、好き放題に食べ散らかした将来の自分ではないか……と。
――いや、さすがに、ここまではなりませんわ……。
心の中でツッコミを入れつつも、ついつい自分のお腹を触ってみるミーア。シャロークまでは、まだかなり猶予がありそうである。
ともあれ、ミーアの本能が叫ぶのだ。この男を責めるのは、ちょっぴり気が引ける……と。
――考えてみれば哀れな方ですわ。ただ、美味しいものをお腹一杯食べて、ダラダラしていただけなのに、こんなことになるなんて……世の中間違ってますわ!
憤るミーア。ミーアはシャロークのFNYに同情と共感を覚えてしまっていたのだ!
だから、目を覚ますのを待って、おとなしく帰ろうと思っていたのだが……、タチアナが唐突に暴露を始めたので、驚いてしまった。
――ちょっ! よろしいんですの!? タチアナさんっ!
思わず、問いかけたくなるミーアであったが……、寸でのところで思いとどまる。
――被害を最小限にするため……、そうなんですのね?
ミーアは、タチアナの考えを察した。
やるべき時に思い切り叩いておかないと、ダラダラと被害は大きくなるのみ。
シャロークも同じこと。ここで回復してしまえば、また聞く耳を持たなくなってしまう。弱っている今だからこそ、徹底的に叩き、そうして、悪だくみから足を洗わせるのだ。
――悪だくみには加担せず、静かに養生してもらうことこそ彼のためになる……そのような判断なのですわね? タチアナさん……。
ならば、とミーアは立ち上がる。
成り行きとはいえ、協力者としてついてきてくれたタチアナが、恩返しをしようというのだ。ここは、一肌脱いで、悪役を演じてやろうじゃないか! と決意したのだ。
そうして、ミーアは口を三日月形にする。
エリスの物語に出てくる悪役の令嬢のような、わるーい笑みを浮かべて、ミーアは言った。
「慣れない種を蒔くものではないという話ですわ。失敗しましたわね、シャロークさん」
あれだけ悪ぶって、偉そうなことを言っておきながら、実は普通に優しいおじさんだったなどと……なんたる恥ずかしさかっ!
心を鬼にして、ミーアはシャロークを蹴る! 未来の自分だったかもしれない人物を論理のキックでビシバシ、ビシバシ! 蹴りつける!
――これもシャロークさんを救うためですわ! ただの良いおじさんとして、余生を健康に過ごさせるためなのですわ!
そう、自分を励まして。
っと、シャロークがうっすら開いた目で見つめてきた。
「ミーア姫殿下……、一つ、お聞きしたいことがございます」
「……あら? なにかしら?」
「ぜひ、聞かせて、いただきたい……」
シャロークは、その身を起こしつつ、言った。
「もしも、自分が、どうにもならぬところまで、道を間違えてしまったら……、そのことに否応なく気付かされてしまったら……あなたならどうするだろうか?」
その質問に、ミーアはきょっとーんと首を傾げた。
――いきなり、変なこと聞いてくる人ですわね……。話を変えてごまかそうということかしら……? でも、逃がしませんわ。ここでしっかりと心をへし折って、ただの良いおじさんになっていただきますわ!
ミーアはフンス! と鼻息を吐いてから、すぐに答えを出す。
「そんなの決まっておりますわ。間違ってしまったところまで戻って、そこから正しい道を探すしかありませんわ」
そう、ミーアは知っている……。キノコ狩りに訪れた森で、迷った時はどうするか? ということを。
簡単だ。迷った場所まで、来た道を戻ればよい。
ここ最近のミーアの愛読書、さる冒険家の手によって書かれたグルメ本「キノコ百珍」にはそう書かれていた。
そもそも、道に迷った時には、どうにもならないところまで……などと言っている場合ではないのだ。道を進んできた労力を惜しんではいけない。戻らずに歩き回ればますます迷ってしまい、余計な体力を消耗するだけなのだから、戻る以外に方法はないのだ。
そして、ミーアは……、その真理を人生にも転用できると思っている。
そう、かつてミーアは、周囲の反対により、キノコ料理の研究を断念した。馬型キノコソテーや、キノコスイーツを極めるという果て無き探求の道は、入り口で閉ざされてしまったのだ。
……けれど、あれは、大きな誤りであったとミーアは思っている。
――やはり、わたくしは……キノコが好きですわ!
キノコ百珍を読んだことで、ミーアの中に一つの決意が固まった。
――必ずや、アベルに、生徒会のメンバーに、わたくしの渾身のキノコフルコースを食べさせて差し上げますわ!
高貴なる紫色のキノコを握りしめ、ミーアは高らかに宣言する。
それは、キノコ皇女ミーアが、キノコ女帝への道を歩みだした歴史的瞬間であった!
まぁ、どうでもいい話である。
それはともかく……、
「間違ってしまう前、か……。なるほど、そのようなものがあるならば、どれだけ良かったか……」
などと、独り言をつぶやくシャロークに、ミーアは追い打ちをかける。
――ごまかそうったってそうはいきませんわよ! 質問には答えましたし、話を戻して、きちんととどめを刺させていただきますわ!
腕組みし、勝ち誇った笑みを浮かべてミーアは言った。
「あなたは認めるべきですわ。彼女……タチアナさんも、あなたの蒔いた種であると……」
“タチアナの存在は過去の自分のちょっとした過ち”などと言われないように、予防線を張りつつ、ミーアは指摘する。
「え……?」
「あなたを救ったのは、そちらのタチアナさんですわよ」
「い、いえ、そんな……」
話を振られ、タチアナは慌てた様子で首を振った。
「救ったなんてそんな……、あれは簡単に治療できるものではありませんから……。あっ、でも……」
と、言葉を切って、タチアナはシャロークを見つめた。
「甘いもの、脂っけの多いものを食べて、運動をせずにいると体を蝕まれます。太りすぎれば、心の臓に負担がかかり倒れますし、これからもっと酷いことになるかもしれません。ですから、食事にはもっと気を使われたほうが良いと思います」
呆然と、タチアナの言葉を聞いているシャロークに、ミーアは補足する。
「タチアナさんは、謙遜しておられますけど、実際、あなたが倒れた時には一番に飛びついて、頭を打たぬようにしていましたし、あなたを救ったのは間違いなく彼女だと、わたくしは思いますわ」
タチアナがぼかしそうになったことを、あえて明確にしておく。
シャロークを救ったのは、タチアナである、ときちんと明示した上で……、
「タチアナさんのお父上はお医者さまでしたけれど、彼女が幼い時に亡くなってしまいましたの。タチアナさんは、お父さまと同じ、医師の道を目指していた。けれど、お金がないから、それを諦めなければならなかった。ああ、なんという悲劇かしら……」
いささか芝居がかった、大げさな仕草で言葉を続ける。
「けれど、そんなタチアナさんを救うものがありましたの。それこそが、あなたが設立した奨学金ですわ、シャロークさん。あなたには、なんの得にもならない、奨学金ですわ!」
金のためにならないことはやらないとか、人の不幸さえ金儲けの手段とか……そんな風に悪ぶっている人間が、過去に自分がやった善行に救われる。
――これは恥ずかしいですわよ! 悪ぶってるやつが一番、やられたくないやつのはずですわ。
ミーアは、そこで、ぽんっとシャロークの肩に手を置いた。
「ねぇ、もうよろしいではありませんか? シャロークさん。あなたは、お金がすべてで、お金こそが力で、神だとおっしゃってましたけれど、あなたを救ったのは、無駄遣いの結果だった。そろそろ認めるべきですわ、お金がすべてでは、決してないと……」
そうして、ミーアは慈愛に満ちた笑みを浮かべて、
「くだらない悪だくみで寿命をすり減らすなど愚かなことですわ。養生なさい。そのための手伝いは、タチアナさんがしてくださいますわ。しっかりとその助言に聞き従うこと、いいですわね?」
シャロークの心をへし折った上で、タチアナの恩返しへと導く。
そうして、すべてをやり切った顔で、ミーアはエールを送る。
――頑張って、せいぜい長生きするとよろしいですわ、シャロークさん。共に健康には気を付けていくことにしましょう。
自らのFNYの先達へと……。
「ああ……ああ……そうか……」
シャロークは……、かすれる声でつぶやいた。
自分はたしかに間違えた。
されど…………自分の人生のすべてが無駄であったわけではなかった。
いつか、どこかの未来で……、商人王と呼ばれた男が無価値だと切り捨てたものが……、決して耳を傾けようとしなかった弱き者たちの、救われた者たちの声が……、今、たしかにシャロークのもとへと届いた。
「そうか……、なんだ、こんなにも簡単なことであったか……」
道に迷ったならば、迷う前まで戻ればいい。
反省という名の自己嫌悪に疲れ、自分なんかこんなものだと諦めて……、いつしか迷っていることさえ見ないふりをした。
気付けば森の奥深く、迷い迷って……、今さら道は変えられぬと、冷笑するばかり。けれど、そんなシャロークにミーアは……こともなげに言うのだ。
戻ればいい、と……。
金がすべてであるというのは、誤りであるから、その呪縛にとらわれる前に、戻ればいいだけなのだ、と……。
彼の目に甦るのは、かつての風景。師匠のもとから独立し、行商を始めた頃の記憶だ。
遠い地の珍しい玩具に目を輝かせる子どもたち。
美しく、珍しい柄の布に楽しそうな声を上げる若い娘。
異国のキセルに上機嫌になる旦那衆。
商品を運び、人々に喜んでもらう、そんなことにかすかな誇らしさを、彼はたしかに覚えていたのだ。
初めて仕事で成功した時、なんだか、あまりにも嬉しくなりすぎて……、なんだか、いいことをしてみたくなったりして……。
だから、奨学金を設立するなどということにも手を出した。
あの時は、ずいぶんと仲間の商人たちに笑われたものだった。
――青臭い。けれど、純粋だった。純粋にこの仕事を楽しみ、誇りを持つことができていた。
いつからだろう……楽しみが、仕事そのものから金を儲けることに変わったのは……。
いつからだっただろう……、仕事を誇らず、金持ちであることを誇り出したのは……。
明確なきっかけがあったわけでは、たぶんない。
ただ、なにかのきっかけで、こうしたら客に喜んでもらえるかもしれない、が、こうしたらもっと儲かるかもしれないに入れ替わってしまった。
こうしたら、楽ができ、こうしたらもっと高く売れ……、そうして、仕事をすることの喜びが、金をたくさん儲ける喜びにとって代わられた……。
「シャロークさま……」
見れば、タチアナという少女が真っすぐにこちらを見つめていた。
「大丈夫です、今からなら、まだ、間に合います。一緒に頑張りましょう」
恐らくは、彼女が言う間に合うは体調的なものだろう。けれど、今のシャロークには、それが、自らの生き方についてのように思えてしまって……。
「そう……か。まだ、間に合うか……」
そうしてシャロークは、長い間、味わうことのなかった晴れ晴れとした気分になるのだった。