第四十七話 糸
深く、暗い闇の沼に、落ちていく、落ちていく。
閉ざされた視界、音のない世界……匂いもなく、味もなく、温もりすらも感じない世界。
――なるほど、これが死ぬということか……。
ここが、自分の人生の終着点……、これですべてが終わり……。
すべてが、今、断ち切られてしまう。明日のために立てていた計画も、売ろうとしていた商品もすべては無に帰する。そんな現実を唐突に突き付けられて……、シャロークは思いのほか動揺した。
あの夢で、たしかに自分の終わりを知っていたはずだった。いつかは、こんな日が来ることはわかっていた。されど、それは「いつか」であるはずだった。
こんなにも唐突に訪れるものであるとは、思っていなかった。
彼は……、冷徹な商人らしくもなく慌てた。
胸を覆う感情、それは形を成さぬ焦燥。
矜持にかけて、自身のこれまでの人生を否定することなどできぬと……、意地を張ってはみたものの、死のもたらす終焉は、たやすくそんな虚飾をはぎ取ってしまう。
後に残るのは、否定のしようのない後悔。
ああ、なるほど、自分は失敗して……、その失敗を認めることができずに、それを正す機会すらふいにした。
彼は失敗し……、頑なに最後まで失敗し続けた。
絶望の闇が、その身を蝕んでいく。
あの日の夢のように、醒めることは、もうない。濃密な暗い沼に沈み込もうとした、まさにその時……、ふいに、彼は見つけた。
目の前に見えた違和感……、闇を切り裂くようにして目の前に垂れたそれは、白く細い糸……、今にも切れてしまいそうな頼りない糸に、されど彼は手を伸ばす……。
それがなにを意味するかはわからなかった。けれど、溺れる者が頼りなき藁にすがるように、闇に溺れた彼は懸命に手を伸ばし、伸ばして――そこで、目が覚めた。
「う、む……ここは……?」
視界が真っ白く染まり、直後に音が戻ってくる。
「お目覚めになられましたか、シャロークさま」
初めに聞こえたのは可憐な声……。そちらに目を向けると、一人の少女の姿が見えた。見覚えのある少女だった。
「お前は……、たしかミーア姫殿下とともに来ていた……」
「タチアナと申します。シャロークさまがお造りになった奨学金制度で、セントノエルに通うことができている者です」
「えっ、あっ、ちょっ……」
タチアナの言葉の直後、なにやら、珍妙な声が聞こえたような気がしたが……、シャロークは未だ、ぼんやりとした頭のまま、考える。
「奨学金……? ああ……」
そういえば、そんなものもあったな、と思い出す。
それは、シャロークがまだ駆け出しの頃、初めて仕事で大成功した時に作ったものだった。
あの頃は、儲けた金を人のため、社会のために使おうなどと……、青臭いことを言っていたものだったが……。
――浅はかで、愚かで、世間の厳しさも、人の残酷さも知らぬ時にした、くだらぬ所業だな……。
そんなもの、金貨一枚の得にもなりはしない。シャロークは鼻で笑い飛ばす。
――くだらない感傷、なんの意味もないもの……。
ふと、そこで、彼の口元に皮肉気な笑みが浮かんだ。
「いや、それは私の人生も同じこと、か……」
自分の人生に、なんの価値も、意味もないことを突き付けられた今となっては、もはや、彼にはなにが正しいのかがわからなくなっていた。
「無事に目が覚めましたのね」
今度は別の声が聞こえる。視線を転じると、そこには……、
「どうやら、大丈夫そうで安心しましたわ」
皇女ミーアが立っているのが見えた。
「これは、ミーア姫殿下……、まさか、私めの見舞いに来ていただけたのですか?」
その問いにミーアは、一瞬、タチアナのほうを見た。なにかを確認するかのような、そんな顔をしていたが……すぐに首を振って、それから、小悪魔めいた、妖艶な笑みを浮かべた。
「いいえ、わたくしは、あなたにとどめを刺しに来ましたの」
「ほう、それは物騒な……。もしや、毒でも盛るつもりですかな?」
ベッドの上、起き上がろうとしたシャロークであったが、ミーアは片手をあげることで動きを制す。
「ああ、無理しない……ではなく、また倒れられたら面倒ですわ。そこに横になったままで結構ですわ」
以前のシャロークであれば……、それでも起き上がろうとはしただろう。
彼にとって、相手との向き合い方は交渉の基本である。立ち上がり見下ろすほうが効果的か、椅子に腰かけたまま高慢に対応するか、はたまた、膝をかがめ、平身低頭の姿勢をとるか。
されど……、シャロークは素直にミーアに従った。
先ほどの、死の気配が彼の中から、虚勢を張る理由を取り去ってしまっていたのだ。
「そうそう、素直なのは良いことですわ。それと、毒などと面倒なことをせずとも、あなたにとどめを刺すことはできますわ」
ミーアは、穏やかな笑みを浮かべながら言う。
「人は、自ら蒔いた種の実りを、必ず自分の手で刈り取らねばならぬもの。あなたにとどめを刺すのは、ほかならぬ、あなた自身が蒔いたものですわ」
その言葉に、シャロークは一瞬、目を瞬かせて、それから苦笑いを浮かべた。
「ああ……。なるほど、それは……至言ですな」
改めて、シャロークは思う。
自身を絶望に陥れるもの、それが、毒などではないことを、彼は実感していた。
「そういう意味では、あなたはすでに死んでいるとさえ言えるのかもしれませんわね」
死が、あの絶対的な絶望であるというのなら……、出逢うのが今か、後かという違いでしかない。終焉の形は変わらない、だから、すでに死んでいる……。
ミーアの辛辣な言葉は、シャロークの胸を深く貫いた。
「慣れない種を蒔くものではないという話ですわ。失敗しましたわね、シャロークさん」
「どうやら、そのようですな……」
シャロークは小さく首を振った。
――私は、どこかで間違えたのだろう……。
行き着く場所が、あの絶望の暗闇であるというなら、たしかに自分は間違えたのだ。
しょせん、死すればみな、行く場所は同じ……。すべて、人は虚しさの内に無に帰するのみ……。
そのように豪語することが、今の彼にはできなかった。なぜなら……、目の前の少女、帝国の叡智が上り詰める場所が、あのような場所だとは、どうしても彼には思えなかったからだ。
――慣れない種か。あるいは、あの終焉に満足できる者というのもいるのかもしれないが、私はそこまで強くなかったということか……。だが……、ならばどうすれば良かったというのだ……?
らしくもなく物思いに耽るシャロークを、ミーアが……なぜだろう……、憐れむような瞳で見つめていた。