第四十四話 わたくしを信頼していただけるかしら?
ユハルの叫び……、それは、ルードヴィッヒにとって、痛みを覚える言葉だった。
ユハルの言うことは、ルードヴィッヒにはよくわかること……、帝国とペルージャンとの間には、たしかにフェアではない条約が結ばれていて……。
それはどうしようもないことでもあった。問題があるとわかってはいても、どうにもできない……、目をそらすしかない問題で……。
もっとも、それはあくまでも帝国側の理屈。ペルージャンの側には、彼らの主張があった。
「長年、帝国との条約により、我がペルージャンの小麦は不当に安く買い叩かれてきた。帝国がある限り、我が国は、永遠に農奴の国とのそしりを免れぬ。いかに口では綺麗事を言おうと、この現実は変わらん」
それは、どうにもならない現実だった。相手を納得させることなど不可能、まして信頼を勝ち取ることなど、絶対に不可能で……。
どうしようもない、仕方ない、と、諦めて目を逸らしてしまいそうなことで……。
けれどミーアは……、
「そう……。そのような条約が……」
たった一呼吸の逡巡の後に……、
「ならば、そのような条約、撤廃してしまうのがよろしいですわね」
こともなげに言った。
まったく、なんでもないことのように……、まるで、なにも考えていないかのように。
あるいは……、それが動かしがたい、絶対の真理であるかのように……。
ミーアは言い放ったのだ。
そんな条約、捨て去ってしまえ……と。
その言葉に、その場の何人かが固まる。
ユハル王、シャローク、そしてルードヴィッヒも……。
そんな中、いち早く立ち直ったのは、ほかならぬルードヴィッヒである。
「ミーアさま、それは……」
そんな彼の顔を見て、ミーアは納得の顔で頷いた。
「ああ、もちろん、わたくしにはそのような権限はございませんから、できることは、それを取りやめるように働きかけることだけですけれど……」
と、ミーアは、一言、ユハルに断りを入れてから、
「できるかしら? ルードヴィッヒ」
ルードヴィッヒに視線を向けた。
――ここで、俺に振るのか!
突然のミーアの言葉に内心で悲鳴を上げるルードヴィッヒ。一瞬、素が出てしまいそうになるのを懸命に抑えつつ、それでも彼は考える。ミーアの言ったことの意味を。
自分には絶対に不可能であると思えることでも、ミーアが言っているのだ。
きっと意味があるに違いない。
まず、道義的な面から言えばミーアの主張は正しい。たしかに帝国とペルージャンとの間には、ペルージャンの国民を農奴扱いするような、不平等な条約が結ばれている。
非常に大まかに言うならば、それは、帝国の必要とする量の小麦を、割安の価格で売ることを中核にした条約だった。
毎年、価格の交渉は形だけ行われるものの、軍事力を背景に、ほとんど帝国の要求通りの値段で取引が行われている。シャロークは、ここに目をつけて、帝国の軍事介入を引き起こさない程度に価格を釣り上げ、食糧不足に陥った帝国に様々な要求を呑ませようと画策していたのだろうが……。
ともかく、ペルージャン側としては、二束三文にもならない小麦のために、広大な土地を占拠されているのも同じ状況であった。
しかも、せっかく輸出した小麦を悪しざまに言われては腹も立つだろう。これを放置することは、少なくとも公正とは言えない状況だった。
また、ミーアの構想「ペルージャンと信頼関係を結ぶこと」に鑑みても、この条約が邪魔をしていることは間違いない。
その意味でも、それを撤廃してしまえ、というミーアの考え方はシンプルで、理にかなっている……。
――問題は実現性だが……。
なにしろ、ミーア自身も言っていた通り、ミーアにはそのような権限はない。
事は国と国との約束事にかかわる。いくらミーアが皇帝の寵愛を受けているとはいえ、皇女という立場に、そこまでの力はないし、わがままで通せることでもない。
そう……ミーアがただの姫ならば……。
言うまでもなく、ミーアの権勢は帝国内のみならず、大陸でも有数のものだ。
ヴェールガ公国の聖女ラフィーナ、サンクランド王国のシオン王子、レムノ王国のアベル王子……。
彼らは、ミーアが正しいことをしようとするならば、協力を惜しむことはないだろう。
それに加えて、帝国四大公爵家の子女たち……。こちらもミーアが頼めば否とは言うまい。
加えて今のミーアには国民の圧倒的支持もある。
そんな絶大なる後ろ盾を従えた、帝国の姫の「働きかけ」である。
ミーアに権限があろうがなかろうが関係ないのだ。その「働きかけ」は、担当の月省の長の言葉より、宰相の言葉より……場合によれば皇帝をすら凌駕するほどの力を持つのだ。
実現性は、決して低いとは言えない。
――なにより決定的なのが、それが、帝国の改革に必要だということだ……。
ルードヴィッヒは、戸惑いつつも認めざるを得なかった。
ミーアの言うことが、帝国をより良い方向に改革していく上で、絶対に必要であるということを。
なぜならペルージャンとのこの条約がある限り、帝国貴族は、自領の農地を増やそうとはしないだろうから。
どうせ、ペルージャンから安く小麦を仕入れることができる。その想いがある限り、帝国内の食糧自給率を上げることは困難だった。
ゆえに、帝国の農地を速やかに改革しようとするならば、ペルージャンへの依存を減らしていく必要があるのだ。
――明快な論理だ。実に……、あいつらが実に好みそうだ。
ルードヴィッヒの頭に浮かぶのは、自らの同門の者たち。先日、彼が声掛けし、協力を願った者たちの顔だった。
賢者ガルヴの弟子たちが、このミーアの考え方を理解し、その必要を示されたならば……、その行政処理能力のすべてをもって動き出すに違いない。
なにせ、自分の力を発揮する場を探してやまない連中だ。生き生きと張り切って、死力を尽くすに決まっている。
そして、それは……条約交渉の権限を持つ者にすら恐らく届きうるだろう。
――ゆえに、できるかできないかで言えば……できる。
それをする道義的「理由」があり、それをする合理的「必要」があり、それをする「力」さえある。
さらに……、ルードヴィッヒは、あることに思い至って、思わず感嘆のため息を漏らした。
――ああ、だからか……。だから、この「時」にミーアさまはこんなことを……。
ルードヴィッヒは知っている。大きな改革には、反対がつきものであるということを。
平穏な日常とは言ってしまえば、止まった状態だ。同じような毎日、同じような一年が続いていく、静寂と停止の時。
変わらない、止まっているということに民衆は、安心を覚えるのだ。
それを変えること、すなわち止まっているものを動かすことに対しては必ず反対が起こる。止まっているから安心できるのだ。変化した先が今より良いとは限らない。否、それが「良いこと」「正しいこと」であったとしても、反対の声は小さくはない。
人間は本質的には保守的で、変わることを恐れるからだ。
ゆえに、ルードヴィッヒには、本来ならば反対する理由があった。
ミーアのやろうとしていることは貴族のみならず、民の反感をも予想できることだったからだ……。
けれど……。ああ、けれどなのだ。
――今、この時に限って言えば……、その反対する理由は消失する。
平穏な日常に変化をもたらすことは難しい。されど変化というものは……ミーアが起こすまでもなく起きるものだ。
時代の流れは今まさに≪飢饉≫という形で、大陸の国々に否応なく変化を強いるところなのだから。だから、ミーアがやろうとしていることは……。
――ミーアさまはその激変に合わせて一挙に帝国の改革をするつもりなのだ。
飢饉によって、弱り、壊れた国を"元の形"に直すのではない。
"新たな形"に作り替えようとしているのだ。
中途半端な改革ではダメなのだ。それでは途中で頓挫する。
そのことが今のルードヴィッヒにはわかっていた。いや、本当のことを言えばもともとわかっていたのだ。わかっていて、今まで見ないふりをしていた真理に、ミーアが光を当ててくれたのだ。
――飢饉により貴族も民も食糧自給に危機感を覚える……、その記憶が鮮烈なうちに、事を一気に進めてしまおうというのか……。
時代の流れすらも視野に入れた壮大なる構想に、ルードヴィッヒはめまいがする思いだった。
――だからこそ他人に頼れ、他人を使え、か……。確かに、このようなお考えを実施するには、俺一人では無理だ。
そう思いつつ、ルードヴィッヒは考えを整理しながら口を開いた。
「そうですね……。帝国内では現在、農地を増やすよう働きかけを行っています。農地が増えれば、必然的に、帝国が輸入する小麦の量も減るでしょうから、段階的に、ペルージャンとの条約を改定していくことは可能ではないかと考えます。帝国がペルージャンから輸入している小麦の量を減らしていくとか……」
ルードヴィッヒは慎重に、自らの考えを提示する。
それは、数年越しの改革になるだろう。
けれど、帝国への輸出量が減り、余った小麦を適正価格で他国に卸せるようになれば、ペルージャンに入っていくお金は増えるはず。状況は改善されていく。
あるいは、小麦以外のことに、その土地を使うこともできるかもしれないが……。
――いや、そのあたりの国内のことはペルージャンの民が考えることだろう。
その行き着く先の、最終的な形はわからない。
軍事力を持たぬペルージャン農業国であるから、安全保障の名目で、多少帝国に有利な形での取引は残るかもしれない。
そもそも改革自体も段階的に進めていくべきものであり、いきなりすべての不平等が解消されはしないだろうが……。
それでも……、それは希望の光になるだろう。
毎年、少しずつでも状況が改善していけば、ペルージャンの農民たちにとっては大きな希望となるのだ。停滞から希望への歩み……その歩みが遅くとも、進んでいくことに意味があるのだから。
そうして、ペルージャン農業国とティアムーン帝国とがウィンウィンの関係で結ばれる。それこそが、ミーアの思い描く両国の新しい形。
ルードヴィッヒの話を聞き終えても、まだ、ぽかんと口を開けているユハル王……。そんな彼に、落ち着き払ったミーアの声がかけられる。
「けれど……、それもすぐにというわけにはいきませんわ。最初に言った通り、これから数年間に及ぶ飢饉がやってきますの。帝国で農地を増やしたとしても、おそらく間に合わない規模の……」
そこで言葉を切って、ミーアはユハルを見つめた。
「だから、今ここでできるのは口約束に過ぎない。その上で……、わたくしを信じていただけるかしら? わたくしを「信頼」していただけるかしら? ユハル陛下」
ミーアは問うた。
自分を信頼するか? と。
帝国と、一から信頼関係を結ぶつもりはあるか? と。