第四十三話 姉妹姫VSユハル王
「ご無沙汰しております、お父さま」
現れた姉、アーシャの姿を見て、ラーニャは安堵のため息を吐いた。
姉をこの場に呼んだのは、ほかならぬラーニャだった。
当初、アーシャは今夏の帰国を見合わせる予定だった。
聖ミーア学園での講師としての仕事もあるし、なによりミーアから託された大切な仕事である、小麦の品種改良の研究もある。
収穫感謝祭はペルージャンの重要行事ではあるが、感謝の演舞はラーニャさえいればできることだ。
だから、アーシャからは帰らないとの連絡を受けていたのだが……。
――お父さまの様子がおかしかったから、念のためにお呼びしておいたけれど、正解だったわ。
「戻ってきたのか。息災のようでなによりだ」
アーシャの姿を見て、ユハルは意外そうな顔をした。
「帰ってくることはできぬと、報せが届いていたが……」
「どうしても、お父さまにお話ししたいことがあり、戻ってきました」
「そうか……」
チラリと父の視線が飛んでくるが、ラーニャは素知らぬ顔で、目の前のフルーツを口に入れた。
別に悪いことをしているつもりはまったくない。
――だって、ミーアさまに味方したほうが、絶対に上手くいくし……。
そのような確信が、ラーニャにはあった。
先ほどの会話が、彼女の頭に甦る。
ミーアは言ったのだ。
「信頼をもって説得する」と。
「力をもって屈服させるつもりはない」と。
目の前で、はっきりとそう言ってくれたのだ。
それからラーニャは、ミーアの後ろに立つ青年を見た。眼鏡をかけた鋭利な瞳を持つ青年、ミーアの腹心、ルードヴィッヒ……。
最初、彼の話を聞いた時、ラーニャは非常に驚いた。
ペルージャンを脅すなどということを言い出した時には、こんな奴、ミーアの臣下に相応しくない! とすら思った。
けれど、今となっては彼の意図が、ラーニャにはよくわかった。
彼は、ミーアの真意をラーニャに聞かせるために、あんなことを言ったのだ。ラーニャの心に一片の疑いすらも生じぬように、ミーアに否定させて見せたのだ。
――ミーアさまに相応しい知性の持ち主……。あの眼鏡の奥の目には、きっと揺らがぬ真理が映っているんだろうな……。
そんな感慨にふけっている間にも、アーシャと父、ユハルの会話は続いていた。
「お父さま、私はミーアさまの学園で、子どもたちに農業を教えています」
「もちろん、聞いている」
「そうですか……。では、ミーアさまの命を受けて、寒さに強い小麦の研究をしていることは、ご存知ですか?」
「寒さに強い小麦……だと?」
ユハルの顔に驚愕が走る。それは、その場にいたペルージャンの者たち、さらに、シャロークも同様だった。
アーシャは深々と頷いてから、ミーアのほうを見た。
「申し訳ありません、ミーアさま。事後承諾になってしまいますが、私の研究のこと、父に話すことをお許しくださいますか?」
わざわざそう尋ねる姉を見て、ラーニャは反射的に思った。
――ああ、お姉さまは……、ルードヴィッヒさんと同じことをしようとしておられるんだ。
アーシャはすでにミーアの思惑を知っている。ミーアがなにを思って寒さに強い小麦を開発させるのか……。
その知識を、どうしようと考えているかということも。
寒さに耐性を持つ小麦……、そんなものがあれば、それは、冷害による飢饉が発生した時、極めて強力な武器になる。他国が不作にあえぐ中、自国では平常通りの収穫を得ることができるのだから。
それゆえ、本来であれば秘密としておくのが普通だ。このような場で、明かしてよい秘密では決してない。
少なくとも、ペルージャンの常識ではそうだ。
……にもかかわらず、
「はて? 別に構いませんけれど……」
そんな特大の暴露であったにも関わらず、ミーアは涼しい顔をしている。怒ったりすることは決してないのだ。
その、一見するとなにも考えていないようなミーアの顔を、ユハル王に見せつけた上で、アーシャは言った。
「私は寒さに強い小麦を、学園の生徒たちとともに研究しています。民を飢えから救うという、幼き日の夢を実現するために……。有意義な仕事だと思っています」
「愚かな……。寒さに強い小麦など、そんなものあるはずが……」
「あら? 寒さに強い小麦はございますわよ? アーシャさんとセロくんが必ず見つけ出しますわ」
ミーアは、まるで、それを知っているかのように断言する。
ユハル以上に、アーシャのことを信じているようで……。その絶対的な信頼を目の当たりにして、ユハルは鼻白んだように黙り込んだ。
「だが、それすらも、しょせんは帝国の繁栄のためではないか。なるほど、寒さに強い小麦ができれば、民は生きるためにそれを買うだろう。民は小麦を得、寒さに強い小麦を持つ帝国は、その分、金を独占することができる……」
「ミーアさまは、その小麦の知識を、周囲の国々に分け与えようとされています」
父の言葉に、アーシャがすかさず反論した。
「おわかりいただけなかったでしょうか? だから、このように、私が話しても、ミーアさまは何もおっしゃらないのです」
「お姉さまのおっしゃっていることは本当です」
そこで、ラーニャが立ち上がった。自分がミーアになにをしてもらったのか……、話すのは今しかないと思った。
「ミーアさまは、私にも道を示してくださいました。アーシャお姉さまが成功した暁には、その小麦の知識を大陸全土に広めればいいって……。悩む私に、進むべき道を、有意義な道を示してくださったんです」
誇りをもって進むべきその未来が、ラーニャには輝いて見えた。
帝国の叡智の照らしてくれた道は、まばゆいばかりに輝いているのだ。
「馬鹿な……。仮に、寒さに強い小麦ができたとして、その技術を簡単に他国に渡すわけがない。それほど重要な情報を簡単に他国に渡すなど……」
それは、農業によって豊かさを目指してきたユハルには受け入れがたい考え方であった。
農業の技術とは、ペルージャンにとっての宝であり、武器なのだ。それは、容易に他国に渡すことなどできない大切なもののはずで……。
「必要とあらば、ペルージャンに研究の成果を持ち帰っていただいても構いませんわ。アーシャさんはペルージャンの姫君ですし、ティアムーン帝国で良き発見があれば、自国の農業にも応用してみたいと考えるのは当然のことですわ」
ミーアは穏やかで、優しげでさえある笑みを浮かべていた。
「もしよろしければ、ペルージャンの土地もお借りして、そこでも寒さに強い小麦を育てたら良いのではないか、などとも考えておりますのよ。共同で研究を進めれば、両国にとって、とても有意義なものとなるでしょう」
そこまで言われてしまえば、ユハルとしても認めざるを得なかった。
ミーアは本気で、民を飢えから救おうと考えている。それも、自国の民だけではない。周辺の国すべての民を、である。
――きっと、お父さまもわかってくださるはず……。
そう期待したラーニャであったが……、直後にその期待は裏切られる。
「そのような……、民を思う姫殿下が、なぜ、ペルージャンの境遇を黙って見過ごされるのか? 姫殿下は、今までのまま……、我らに奴隷のままでいるようにと、そうおっしゃるのか?」
まるで、血を吐き出すような、震える声で、ユハルは言った。