第四十話 それぞれのランクアップ
さて、水浴びを終えたミーアは、そのまま部屋に戻ってきた。
遊びに行きたそうにしていたベルをタチアナに任せて、さらに引率をルードヴィッヒにお願いしておく。ついでに、食べ物のリサーチをお願いしておくのも忘れない。
――この国にいる間に食べるべきものと、持ち帰ることができるものとの見極めが大事ですわ。
先ほど、食べ過ぎを指摘されたミーアであったが、すでに切り替えていた。
ミーアは、正しい忠言にはしっかりと耳を傾けるほうである。なるほど、たしかにタチアナの指摘通り、この旅の間、自分は食べ過ぎていた。それは認めよう。健康を害するし、なにより、二の腕のフニフニ感はミーア自身気になるところではある。
それゆえに……、ミーアは考えた! 頑張ろう……、この旅が終わったら……と。
――旅というのは、特別なもの。それほど頻繁にあることではありませんし、ペルージャンでしか味わえないお菓子……ではなく、経験というのもあるはず。であれば、それをしないのはもったいないことですわ!
そうして、ミーアは割り切ることにした。
この旅の間は、目をつむろうじゃないか、と。
それは……「明日から頑張ればいいじゃない」という、サボる時の常套句を格上げしたような、なんともアレな決意ではあったが……。ともあれ、ミーアは決意を固めたのだ。
だが……、その前に……、
「アンヌ、少しよろしいかしら?」
「……はい? なんですか? ミーアさま」
水浴びにより、しっとり湿ったミーアの髪を梳きながら、アンヌは首を傾げる。
今はそうでもないが、先ほどは様子がおかしかったアンヌである。今のうちに話を聞いておこうと、ミーアは考えたのだ。同時に、心を開いて話してもらうには、もっと明るい状況が好ましいだろう、とも考える。……例えば、買い食いの最中とか。
ということで……、
「この後、晩餐会まで少し町に出て買い食いにでも……」
「いけません! 足のお怪我もあるのですから、時間までこのお部屋で休んでいてください」
「……はぇ?」
珍しく、強い口調で否定するアンヌに、ミーアは目を白黒させた。
「あっ……」
見ればアンヌも、驚愕の表情で固まっていた。どうやら、自分で言ってしまった言葉がショックだったらしい。小さく唇を震わせて、絞り出すように、
「もっ、申し訳ありませんっ!」
勢いよく頭を下げると、そのまま踵を返して、部屋を出ていこうとする。
「ちょっ、待ちなさい。アンヌ!」
ミーアは、慌ててその手を掴んだ。
「一人でどこへ行くつもりですの?」
「……っ!」
セントノエルや帝都ならばいざ知らず、ここは異国の地である。案内もなく飛び出したら、迷ってしまうだろう。目を見開いたアンヌに、ミーアは小さく微笑んで、
「うふふ、最近はしっかりしてきたと思いましたけれど、やっぱりアンヌはそそっかしいですわね」
それから、静かに瞳を閉じた。
「でも、まぁ、そうですわね。アンヌがそう言うならばここで休むことにいたしましょうか。髪の手入れを続けてくださらない?」
「はい……、申し訳、ありません」
再び、頭を下げるアンヌ。やっぱり、その声には元気がないように感じた。
「ねぇ、アンヌ、なにかありましたの? なんだか、先ほどから元気がないように見えますけど……」
ミーアの指摘に、アンヌは一瞬息を呑んでから、ぽつり、ぽつりと話し始める。
「ミーアさまが、あの小麦の上を歩こうとされた時……、私は止めることができませんでした。その結果、ミーアさまのおみ足に……。しかも、そのことに全然気付かなくて……」
「ああ、あれは……。余計な心配をかけてしまって申し訳ないと、わたくしも大いに反省しておりますわ。今回は少し無茶が過ぎたと……」
「それだけじゃ、ないんです……」
アンヌは、声を震わせる。
「タチアナさんの言ってたこと……本当は、私がミーアさまにお伝えしなければならないことだったのに……。食べ過ぎだって……お止めしなくてはならなかったのに……私は……その勤めを果たすことができませんでした……」
うつむくアンヌの瞳に、じわりと涙の粒が膨らんだ。
「私が……もっとしっかりしないと……タチアナさんみたいに……、ミーアさまのお体に気を使って……」
「アンヌ……」
ミーアはアンヌの肩に、ポンと優しく手を置きつつ……。
――まっ、まま、まずいですわ。
内心で、焦りまくっていた!
――もしも、アンヌがタチアナさんに刺激されて、甘いものを一切許さない! なんて言いだしたら、一大事ですわ!
無論、ミーアは都合の良い人間ばかりを自分の周りに置くことの危うさを、よく知っている。
アンヌには忌憚ない意見を言ってもらいたいし、必要とあらば諫めてもらいたいとも思っている。
けれど、その上で、アンヌには、ちょっぴり甘くしてもらいたいミーアである。
必要とあらば、ミーアを恐れず注意をしてくれる、けれど……大抵の場合は、優しく甘やかしてくれる……そんなアンヌのままでいてもらいたいのだ!
なんとか、アンヌの思考の方向を変えなければ、と知恵を絞った末、ミーアは小さく笑みを浮かべた。ミーアが笑ってごまかす時によくやる笑い方である。
「アンヌ……、あなたの気持ち、わたくしはとても嬉しく思いますわ。その上で言っておきたいですわ」
ミーアは懸命に思考しつつ……、言った。
「アンヌ、あなたは……誰?」
「え? 私……私は……」
「あなたは、アンヌですわ。タチアナさんでも、ルードヴィッヒでもない。あなたはアンヌ、誰よりもわたくしが信用する、わたくしの大切な腹心ですわ」
アンヌはタチアナとは違う。だから……、別に甘いものを食べることに、そこまで厳しくする必要はないんだ、と、ミーアは力強く、切々と訴えかける。
「あなたには、あなたのまま、わたくしのそばにいていただきたいんですの。もちろん、アンヌが算術を頑張ったり、お料理の腕前を鍛えたり、馬に乗れるようになったり……、そうしたことを頑張るのは止めませんわ。けれど……、無理をして他の人になる必要はどこにもありませんわ」
「み、ミーアさま……」
アンヌは、瞳をパチパチと瞬かせた。その瞳からは、大きな粒になった涙がこぼれ落ちる。それを指で拭ってから、ミーアは言った。
「いいですわね、アンヌ。あなたは、ずっとあなたのままでいて。それこそがわたくしの願いですわ」
「はい……、はい! ありがとう、ございます……」
声を震わせるアンヌに、ミーアは……、どうやら上手くいったようだ、と胸を撫でおろすのだった。
……けれど、話はそれで終わらなかった。
「ただいま戻りました。ミーア姫殿下」
ベルとタチアナを連れたルードヴィッヒが帰ってきたのは、空が赤く染まり始めたころだった。
「ああ、帰りましたのね。楽しかったかしら?」
ミーアの問いかけに、ベルが腕をぶんぶん振った。
「すごかったです、ミーアお姉さま! ボク、あんなに美味しいもの、初めて食べました。もう、お腹いっぱいで」
「あら? では、今夜の晩餐会は……」
「何言ってるんですか、ミーアお姉さま! お夕食は別腹ですから!」
ミーア、反射的にベルの二の腕を掴んで、ふにふにする。
「きゃんっ! み、ミーアお姉さま、くすぐったいです」
「これは……、腕をぶんぶん振ってるから、こうなのかしら……。なんか、納得いきませんわ……」
などというやり取りをしつつ、ミーアはルードヴィッヒに目をやった。
「それで、農作物の調査ははかどったかしら?」
「はい。さすがはペルージャンです。見たことのない作物がたくさんありました」
と、そこで、一度言葉を切って、ルードヴィッヒは苦い表情で続ける。
「それに……、初めて知ることもたくさんありました。やはり、師匠の言っていた通り、実際に見てみないとわからないことというのは、たくさんありますね。俺は……まだまだです」
「あら? どうかしましたの?」
「ミーア姫殿下、先ほどは申し訳ありませんでした。小麦のことを、私は知りませんでした」
そう言って項垂れるルードヴィッヒに、ミーアはちょっぴり驚いた視線を向けた。
「まぁ、アンヌに続いて、今度はあなたですの?」
「は……?」
「いえ、何でもありませんわ」
などと首を振りつつ、ミーアは……、ふむ、とうなった。
――まぁ、珍しくへこんでいるルードヴィッヒを見るのは、悪くはありませんけれど……。ともあれ、ルードヴィッヒにはこれからも活躍してもらわなければ困りますし……、それ以上に……。
ミーアはチラッとルードヴィッヒを見て、ほんのり危機感を覚える。
――これは……。ヤバイ臭いがしますわね。
本来、ルードヴィッヒは、知識の徒。優秀な文官ではあっても、その根っこの部分は、勉学を好む学者気質である。
まぁ、それ自体は特に気にする必要のないことであるのだが……。問題は、彼が教育熱心でもある、ということである。
そして、その熱心さが向かう先がどこなのか、ミーアはよく知っていた。
――先ほどの出来事は小麦の特性を知っていればできなかったこと。だから今後、わたくしがあのような無茶をしないように、しっかりといろいろ勉強してもらう、などと言い出されたらたまりませんわ!
切実な危機感に背中を押されて、ミーアは言った。
「ルードヴィッヒ、わたくしは思いますわ。この世のすべてを知ることは、人の身には到底できないことである、と」
「はい。ミーアさまですら、この世のすべてはご存知ないのだということは、私も知っております。だからこそ、私がミーアさまの足りない部分を、私が補わなければならないということも……」
「ルードヴィッヒ、わたくしはたしかにあなたの知恵を求めましたわ。されど、あなたに全知の賢者になるように求めたことは一度もございませんわ。わたくしは、自分ができることは少ないということを知っている。だから、あなたにも全部ができるようになれなどとは言いませんし、すべてを知っているように求めようとも思わない」
ミーアはそれから、そっと胸に手を当てた。
「無論、あなたが、向学心のままに知識を得るのを、わたくしは止めはしませんわ。けれど……、わたくしは、自分でなんでも知り、なんでもできるようになろうとは思わない。わたくしは、自分の足りない部分は他人に頼るのが良いと思っておりますの。意味は、わかりますかしら?」
要するに……、ルードヴィッヒが頑張って勉強するのは、まぁ、別に知ったこっちゃないが、自分はそんなに勉強せずに、他人の頭を借りようと思う、と……。
そんな具合のことを、臆することなく豪語するミーアなのであった。
そのミーアの言葉に……ルードヴィッヒはハッとした。
今まで、考えてもいなかったことを指摘されたためだ。
自分は……ミーアのかたわらで、帝国のために働ければ、なんでもいいと思っていた。
下働きでも、肉体労働でも……、どのような仕事でも、ミーアの助けになれるならば構わないと思っていたし、現にそのように働いてきた。
それは、いわば万能の副官として、各地を働きまわる役割だ。けれど……、
――ミーアさまは、俺に求めるのは万能の副官ではない、と……。そう言っておられるのか?
ミーアが示唆したこと、それは、専門家たちの力を取りまとめる存在だった。
すなわち……、それは……。
――俺に人の上に立つ地位に就くことを望むと、そういうことか……。上の地位、例えば宰相か……。
ミーアを女帝にしようと画策するルードヴィッヒ。その意気に応えるために、ミーアは、ルードヴィッヒにもまた、覚悟を問うているのだ。
自分のように、足りない部分を他人に頼る存在になるつもりはあるか? 能力のある専門家たちを、帝国に数多いる能吏を率いるつもりはあるか? と。
帝国宰相……。それは基本的に貴族の爵位を持つ者が就くものだ。
仮に、ミーアの後ろ盾があったとしても、平民のルードヴィッヒがなるのは、極めて厳しい。
さらに、彼が味方に引き入れた同門の者たちを、能力で納得させる必要がある。彼らの上に立つのであれば、相応の器を見せる必要があるのだ。
それは、ミーアの手足となって身を粉にして働く以上に大変なことだった。個人の能力とは別の、人を見る目と指導力、忍耐力が求められるのだ。
――ディオン殿には、上に行ってもらうと言ったのだ。俺自身もまた……覚悟を決めなければならない、か……。
後の名宰相、ルードヴィッヒ・ヒューイットが帝国宰相の地位を志したのは、実にこの時であった。
かくてミーアは、アンヌの「忠誠」とルードヴィッヒの「覚悟」、それに自身にかかっていた美食的良効果「空腹」をそれぞれワンランク引き上げることに成功したのだった。
――うう、結局、買い食いには行けませんでしたわ……。こ、こうなったら、歓迎晩餐会で後悔のないように、食べまくってやりますわ!
そんな決意を胸に……ミーアは、運命の晩餐会に臨むことになるのであった。
ミーアにかけられていたバフ「空腹」が「超空腹」にアップした。




