第三十七話 帝国の叡智からは逃げられない
「あれが……帝国の叡智、ミーア・ルーナ・ティアムーン、か……」
ペルージャン国王、ユハル・タフリーフ・ペルージャンは、黄金の坂道を登ってくるミーアの姿を見ていた。
大歓声に沸く民衆、その声に偽りがないことが、彼にはわかっていた。
今日、帝国の姫を迎えるために集まった民衆、嫌々ながら集まった彼らが、今では、心からの歓迎の意を示している。
「このような方法で、民の心をつかもうとは……。見事な知恵だ。帝国の叡智は貴族社会のくだらない慣習にとらわれずに実利をとる、か……」
人心掌握のために、商人のごとく王侯貴族の常識を簡単に切り捨てる……。その姿勢に、ユハルは忌々しさを覚えた。
「心の中では我らを見下しつつも、外面だけは我らに敬意を見せるか……。小賢しい娘だ……」
ユハルは知っている。
「誇りなど、実利の前では何の意味もない」と、そのように合理的に考えられる者が、貴族や王族の中にもいるということを。
きっと、皇女ミーアというのもその類の人間。誇りよりも利益を重んじることができる現実主義者に違いないと、彼はそう判断した。
「しかし、ミーア姫はあの小麦のことを知っていたのだろうか……?」
普通、小麦には小さな棘があり、素肌に触れると痛みやかゆみを発するようになる。
ペルージャンの小麦は品種改良により、ほとんどそのようなことは起こらないようになっているが……、その小麦の習性をしっかりと見抜いた上で、安全を確信しての行動であれば、侮れない観察眼と機転だった。
「あるいは、どちらでも良かった、か……」
ユハルは、思わずハッとする。
もし、あの小麦を踏んで足にケガをしたとすれば、それを理由になにか無茶な要求をするつもりだったのかもしれない。相手をもてなすために、ペルージャン側が配慮を欠くとも思えないが、配慮を欠いていたとしても構わない、と……そういうことであったのかもしれない。
「小麦の知識を持っていたか、ペルージャン側の配慮を計算したか、もしくは、棘があっても構わないと思っていたか……」
いずれにせよ、ミーアの行動が、あくまでも計算に基づいてなされたものなのだと、ユハルは判断した。
あるいは……、もしかすると彼はそう思いたかっただけなのかもしれない。
いつか見返してやるべき帝国の姫は、強大な相手でなければならなかったから……。
強大で冷酷な……敵でなければならなかった。油断すると自分たちを踏みつけにするような、あるいは、民を思いやるふりをしながらあっさりと切り捨てる……そのような者でなければならなかった。
決して思いやりを持った者であっては、ならなかったのだ。
だって、そうでなければ、危険を冒して戦うことができなくなるから……。
ユハルは自分の信じたいものを信じ、見たいものを見た。
都合のよい虚像を見てしまったのだ。
「しかし、この黄金の天の農村を訪れる、初めてのティアムーン帝国皇帝の関係者が、まさか、歩いてこの坂道を登ってくるとは……。わからぬものだな……」
その時だった……。彼の脳裏に微かな違和感が生まれる。
それは……ある種の揺らぎのようなもの。湖面に生じた波紋のごとく、彼の記憶が揺らいで、そして……。
「……いや、そうではないか。先代の皇妃さまがいらしたことがあったか……? だが……、いや、あれは……夢のことだったろうか……?」
淡くはじける記憶の泡、それが夢か現か……。ユハルは、自身のあやふやな記憶に当惑し、それを誤魔化すようにゆっくりと首を振った。
「記憶の混濁か……。ふふ、年は取りたくないものだ……」
そうして、枯れた笑い声を上げた。
「ミーア皇女殿下、遠路をはるばるいらしていただきまして……」
ミーアが黄金の坂を上り切ったところで、ユハルはミーアの前に出た。
「お初にお目にかかります。ミーア殿下。ペルージャン国王、ユハル・タフリーフ・ペルージャンにございます」
そうして、彼は片膝をついた。
いかに相手が帝国皇女に対してとはいえ、仮にも一国の王のとるべき態度ではない。
けれど、ユハルもまた必要とあらば、誇りを捨てることができる者だった。属国の王の挨拶は、卑屈なぐらいでちょうどよい。特によからぬ企みを腹に秘めた今は、余計な詮索をされてはならない。
「これは、ご丁寧に、陛下。わたくしは、ミーア・ルーナ・ティアムーンですわ。以後、お見知りおきを」
スカートの裾をちょこんと持ち上げて、ミーアは言った。
「娘たちがすっかりお世話になっておりますのに、ご挨拶にうかがうこともせずに、申し訳ありません。そのお詫びというわけではございませんが、今夜は歓迎の宴を用意しております。長旅でお疲れでなければよろしいのですが……」
「ああ、それは実に素晴らしい。何の問題もございませんわ。わたくし、どれだけ疲れていても、お腹がいっぱいでも、ペルージャンのお料理でしたら、食べられると思いますわ。この国のお料理は絶品ですもの。楽しみにしておりますわね」
満面の笑みで見え透いたお世辞を言って、それからミーアは、わざとらしく小首を傾げた。
「あ、そうですわ。それでしたら、一つお願いがございますの」
「お願い……、ですか。さて、それはどのような……」
「わたくしのための歓迎会には、ぜひ、シャローク・コーンローグ殿を同席させていただきたいのですわ」
「ほう……」
不意打ちのように出てきたその名前に、ユハルは、ちらりとラーニャのほうを見た。自分と目を合わそうとしない娘に、ユハルは内心でため息を吐く。
――ミーア姫に情報を流したか……。まさか、娘に裏切られようとはな……。
などと思いつつも、表情一つ変えずにユハルは言った。
「ですが、かの者はただの商人。ミーア姫殿下の晩餐会には相応しくないでしょうに。いったい、なぜ、そのようなことを?」
大国ティアムーン帝国の皇女を招いての晩餐会に、一介の商人を呼ぶのは不適切である、と言外に伝える。けれど、ミーアは朗らかな笑みをたたえた顔で言った。
「ええ、実は……」
とそこで遅ればせながら、ミーアの乗っていた馬車が追い付いてきた。
降りてきたのはミーアと同年代の二人の少女、それにメイドの少女と、眼鏡をかけた青年が一人である。
ミーアは、そちらに目をやりながら言った。
「実は、わたくしのお友だちのタチアナさんが、なんでもシャローク殿に大変な恩があるらしくて。ぜひ、直接お会いして、お礼を言いたいということなんですの」
ミーアの視線を受けて、一人の少女がぴくん、と緊張したように固まる。
――なるほど。すでに口実は用意してあるということか……。このぐらいは当然か……。
ユハルは、自分の娘より幼いミーアに一層の警戒心を持って当たることにする。
「うふふ、シャロークさんは、とても良い方みたいなので。わたくしもその時のお話とか聞いてみたいって思っているんですのよ?」
妖しげな笑みを浮かべるミーアに、ユハルは油断なく頷いた。
「そうでしたか……。それでは、そのように手配いたしましょう」
逃れることのできぬ帝国皇女の願いに、内心で舌打ちしながら……。