第三十二話 タケノコの友
ペルージャン農業国――「我が国に農地以外の領土なし」と豪語するこの国には、まともな軍隊と呼べるものは存在していない。
王家を守る近衛兵は一応は存在しているものの、その規模は帝国軍はおろか、帝国の一貴族の私兵団にも劣るほど。しかもその構成員は、半農半兵どころか、八農二兵といった有様であり、ひとたび戦争が起これば、蹂躙されるほかない、軍事的な弱小国であった。
そんな国が滅ぼされることなく、侵略されることもなく、国としての体裁を保っていられるのは、この地に広く認識される中央正教会の影響力と、ティアムーン帝国への徹底した恭順のゆえだった。
中央正教会の広めた各国共通の道徳基盤は、安易な侵略戦争を許さず、後ろ盾となる帝国の武力は、実際的な軍事的抑止力として働いた。
かような地政学的な背景を持つペルージャン農業国ではあったが、そのことで彼らが肩を落とすことはなかった。
「我らは食によって、大陸に覇を唱えるのだ」
そんな大号令のもと、歴代の王族は、国を挙げて農業技術の向上に邁進した。軍事力を強化せずとも良い状況を逆手に取ったのだ。
品質の高い農作物をもって、様々な種類の農作物をもって、国を豊かにしようと民を鼓舞した。属国扱いなどできぬよう各国を見返してやろうと……そう努力して、努力して……。
されど……、その努力が報われることはなかった。
なぜなら、彼らの隣国は、後ろ盾は、農業を蔑視するティアムーン帝国であったからだ。
帝国こそが、ボトルネックだった。
帝国の属国であればこそペルージャンは守られるのに、その帝国は、ペルージャンの一番の強みである農業を評価しない。
まるで汚れ仕事でもあるかのように、見下しているのだ。
ペルージャン農業国とティアムーン帝国の間には、容易には越えることのできない溝が、たしかに存在していた。
「お初にお目にかかります。陛下。拝謁がかないましたこと、光栄至極にございます」
自らの前に膝をつく男、シャローク・コーンローグを前にして、ペルージャン国王は、苦笑いを浮かべた。
「国とは名ばかりの属国の王に、過分な礼は不要。名だたる大商人たるコーンローグ殿が、我が国に何用あっていらしたのかな?」
王は知っている。王侯貴族にとって、誇り、礼儀は命を懸ける価値を持つ。されど、商人にとってのそれは、商談を有利に進めるための手段でしかない。
「なるほど、さすがは聡明をもって知られる国王陛下。世辞では、お心を開くことはできませぬか」
「聡明とは異なことを。私など、田舎の小国の愚鈍者に過ぎぬ」
そう言いつつも、王は片手でシャロークに座るように指示を出す。
「そうですかな? 私の眼には、あなたさまが、大陸の覇者を殺しかねぬ武器を整え、研ぎ澄ませているように見えますが」
「ほう……武器とは? ろくな軍隊も持たぬ我が国にどのような武器があると、そなたは申すのか? まさか、我が国がひそかに軍備を増強しているとでも……?」
「お戯れを。軍事力など……、愚鈍なる帝国に任せればいい。平和の維持が必要ならば、ヴェールガにすがればよい。そのようなものよりももっと根源的に、人間を殺すものをあなた方はお持ちでしょう」
シャロークは口元に笑みをたたえて言った。
「そう、食……、にございますよ」
その言葉に、王はわずかばかり、警戒心を刺激される。
「なるほど……たしかに、我が国は農業に力を入れているが、それを武器とは穏やかではないな」
笑い飛ばそうとするペルージャン国王を、けれど、シャロークは逃がさない。
「農業に力を入れる貴国であれば感じているでしょう。不作の兆候、飢饉の足音を。飢饉の時、最も価値を持つのは黄金、宝石ではない。食糧にございます」
そうして、シャロークは、国王の目をじっと見つめる。
「歯がゆくはございませんか? 国王陛下、帝国の属国などと呼ばれることが。貴国は優れた農業技術を持っている。されど、帝国がある限り、いつまでたっても帝国のおまけのような扱いは変わりますまい」
その言葉は、たしかに王の心をえぐった。
それは長年、ペルージャンを縛り付けてきた呪いの鎖だったからだ。
「……それも為政者が変われば変わる。帝国のミーア姫殿下は、食に造詣が深い方と聞く。我がペルージャンにも、きっと良き影響を……」
「幼き皇女の慈悲にすがる、と? それはまた、ずいぶんと消極的ではありませんか?」
シャロークの言葉に、ぴくり、と王の肩が揺れる。
王は知っている。
ペルージャン農業国が積み上げてきた研鑽は本物だ。どれほどの民が、技術者が汗と涙を流してきたことか……。にもかかわらず、その努力の報われ方が……、一人の姫の慈悲にすがるものであるなどと……、そのように言われてしまうことが、口惜しくないはずがない。
それが彼一人の思いであれば、あるいは呑み込めたかもしれない。娘たちに聞く限り、皇女ミーアは善性の人だ。
今、帝国の中で権力を握りつつある彼女がもたらすものは、ペルージャンにとって、きっと良いものに違いないのだ。
……けれど、国王の目には、畑で汗する民の姿があった。それは今現在の民の姿ばかりではない。すでにこの世にはない、この農業国を支えてきた人々の姿だ。
彼らの積み上げてきたものが、このような形に結実して良いものか……。
誘惑者は耳元で甘く囁く。今や、農作物は武器になると。
帝国を殺しうる、強力な武器になりえるのだ、と。
ペルージャンの先人たちが積み上げてきたものが、自分たちを低く見た者たちを見返すための武器になりえるのだと……、その事実が、国王の心を揺さぶった。
「……具体的にはどうするつもりだ? 作物を売ることを渋りでもすれば、帝国側が黙ってはいまいが……」
「簡単なこと、値を吊り上げれば良いのです。それも不当ではなく、正当な範囲内、あるいは、正当を、ほんの一歩踏み出したぐらいに。兵を動かして圧力を加えようと、帝国が思わない程度、わずかばかり値を上げていってやればいいのです。それに慣れたころにまた、値を上げる。ところで、陛下は八本の足を持つ悪魔の魚を生きたままゆでるコツをご存知ですか?」
不意な問いかけに、国王は首を傾げる。
「簡単なこと。突然、熱い湯につけては逃げられますゆえ、徐々に火勢を強くしてゆけばよいのです。さすれば、気付いた時には、手遅れ。ゆでられております」
シャロークは、にやり、と笑みを浮かべる。
「そうして、その匙加減は、商人の得意とするところ。どうぞ、帝国との取引を私にお任せいただけないでしょうか?」
「……なるほど、よくわかった。が、即答はしかねるな……。感謝祭には出ていかれるのであろう? シャローク殿」
「はい。しっかりと稼がせていただきますとも」
「では、この返事はまた、祭りが終わった時にでも……」
そうして、二人の会談は終わりを告げた。
こっそりと……、その話に耳を傾けている、お姫さまの存在には気付くことなく……。
さながら、地下茎のごとく……お姫さまがミーアとつながっていることなど、知る由もなく。
――どうしよう……。大変なことに……。
謁見の間の隣の部屋に身を潜めた、ラーニャは息を殺して成り行きを見守っていた。
そこは、幼き日より、姉たちと遊ぶのに使っていた部屋だった。
壁のわずかな隙間に耳をつければ、謁見の間の会話がよく聞こえるため、よくイタズラに使っていたのだ。小国ペルージャンならではのことである。
――お父さまが、あんな話を受けるとは思えないけど……。
そう思いつつも、ラーニャの心には一抹の不安が残った。
もしもかつての自分が、ミーアと出会う前の自分が……あんな申し出を受けたら、聞かないだろうか……?
思うのはそんなことだ。
――もしも、お父さまが話に乗ってしまったら……、大変なことになる。でも、こんなことをミーアさまに言っても大丈夫かな……?
父がするかもしれないことは、帝国に対する明確な裏切りだ。下手をすると、ミーアの怒りを買って、大変なことになるかもしれない。
一瞬の迷いの後、ラーニャはすぐに行動を起こす。一刻も早く、ミーアに知らせを出すために。
――ミーアさまなら、きっとなんとかしてくれるに決まってる!
ミーアへの信頼は、揺らぐことはなかった。