第三十話 ミーア姫、自らのFNYを悟る……
「う、うーん……」
目を覚ました時、ミーアは、清潔なベッドの上に寝かされていた。
「こ、ここは……、ああ、治療室ですわね……」
近隣諸国の貴族の子弟が集う場所、セントノエル学園には、優れた医療体制が整っている。そもそも、大陸の各国に、治療院という形で医療を広げたのが、ほかならぬ中央正教会である。その本拠地である聖ヴェールガ公国には、古くから医学の知識が集積されているのだ。
そんな最先端の医療を受けたおかげか、ミーアはすっきり気分よく起き上がる。
「ふむ……、さすがはセントノエル学園ですわ。素晴らしい治療ですわね」
……まぁ、そもそもミーアは血を見たショックで気を失っただけで、倒れかけた時にしっかりとアベルが受け止めたこともあって、ケガ一つなく……。なので、特に治療を受けたりはしていないのだが……。
「あ、気が付かれましたか、ミーア生徒会長」
と、ミーアの様子に気付いたのか、一人の少女が歩み寄ってきた。その顔を見て、ミーアは少しばかり驚いた声を上げる。
「ん? あら、あなたは……えっと、タチアナさん……? なぜ、このような場所に?」
首を傾げるミーアに、タチアナはちょっぴり困ったような笑みを浮かべて、
「えと、治療院を見学させていただいています……。実は、私の父親が医者をしていたので、設備に興味があって……」
「まぁ、お父さまはお医者さまだったんですのね……。なるほど……、あ、と、そうですわ! それより、ベルは……」
慌ててあたりをキョロキョロ見回せば、
「あっ、ミーアおば……お姉さま、お目覚めですか?」
ベルが歩いてくるのが見えた。どうやら、隣の部屋にはアンヌやシュトリナもいたらしく、ベルの後からついてくる。
「えへへ、ミーアお姉さま、ボクもタチアナちゃんに、包帯を巻いてもらいました。とっても上手かったんですよ」
そう言って、ベルは自慢げに自らの膝を指さした。その幼い膝小僧には、丁寧に包帯が巻いてあった。
「それ、大丈夫なんですの?」
「あはは、ちょっと擦りむいただけですよ。もう、ミーアお姉さま、心配性ですね」
などと笑っているベルであるが……そんな風に包帯を使うんだったら、それは結構なケガなのではないかと思ってしまうミーアであった。
「血が出ていましたが、骨にも異常はありませんでしたし、傷もそこまで深くはありませんでした」
補足するように、タチアナが説明してくれる。その口調には、いつものおどおどした様子はなく……、むしろ堂々とした、自信にあふれたものだった。
「ふむ、さすがはお医者さまの子どもですわね。それは、すべて、お父さまに教わりましたの?」
首を傾げるミーアに、タチアナは一瞬黙ってから……、
「父は、私が五つの頃に亡くなりました。だから、教えてもらったことはほとんどありません。この知識は、私が自分で学んで身に付けたものです」
「まぁ、そうでしたの……それは、頑張りましたのね……」
頷くミーアに、タチアナは、意を決した様子で言った。
「ミーア生徒会長、お聞きいただきたいことがあります」
そうして、彼女は語りだした。
自分と、シャローク・コーンローグとの関係を……。
「私は、父のように医の道に携わりたくて、セントノエルに来ました。でも、私の家は、貧しくて……、本当はそれは叶わぬ夢のはずでした」
タチアナは胸に手を当てて、続ける。
「でも、シャロークさまの作った奨学金の制度で、勉強することができて……。セントノエルへの推薦もいただくことができたんです」
「まぁ、そうなんですのね!」
ミーアは、ちょっぴり驚いた。
――意外ですわね。あの金の亡者のような方が……。そんな、思いやりを示すなんて……。ああ、でも、自分の評判を維持するために慈善活動をするとか……、そんなこと言ってましたっけ。そういうことはよくあることではありますし……。
と思い直すも、まるで、心を読んだかのように、タチアナは首を振った。
「シャロークさまは、嫌われています。だから、みなさんは、シャロークさまのことを、悪く言います。どうせ、自分の評判を高めるためにやったことなんだって」
ズバリ、考えていたことを言い当てられて、ミーアは、ふむ、と鼻を鳴らす。
「でも、奨学金を作ったのは、あの方がもっと若くて、まだまだ商人として駆け出しの時だったんです」
「あら、それでは、相当無理をしてお金を出したんですのね」
「はい。いい商売をさせてもらっているから、自分が稼いだお金で恩返ししたいって。そうおっしゃられて……。そして、私のように救われた者も大勢おります。卒業した者の中には、シャロークさまのことを尊敬して、商人を目指している者もいるぐらいです」
――なるほど、これは……、いいことを聞きましたわ。うふふ……。
タチアナの話を聞き、ミーアは、心の中でニンマリとほくそ笑んだ。
今聞いたのは……、シャロークからすると恥ずかしい過去だ。
たとえるならばそれは、強面の海賊が愛猫に赤ちゃん言葉で話しかけているのを見られるようなものである。
これは恥ずかしい!
きっと現在のシャロークの価値観からすれば、若気の至り。思い出したくもない過去なのだろう。自分とは何の関係もない貧しい家の子どもたちのために、奨学金制度を設けるなんて、しかも、身銭を切り、自分自身も決して裕福とは言えないにもかかわらず、それをするなんて……。
これを思いやりと、優しさと……、感傷と言わずして、何と言おうか!
――あの男、わたくしに感傷だの弱さだの、いろいろ言っておりましたけど、ご自分だって、若かりし日に、ちゃあんとやらかしているのではありませんの!
生まれた時から金のために生きて、金のために死ぬ、みたいな冷徹超人めいた態度をとっていたシャロークであるが、ちゃんと甘さも感情もある、普通の男なのだ。
ミーアは、その弱みを握れたことに、満足げに頷いた。
――あの男、諦めが悪そうでしたし、きっとまた来るに決まってますわ。そうしたら、その時はこの弱みをつっついてやりますわ……うふふふ……。いい人なんですのね、って。うふふふふ。
悪女ミーアは、胸の内で高笑いを上げる。
と、そんなミーアに、タチアナは言った。
「ミーアさま、お願いします。どうか、シャロークさまに、あまり酷いことをしないでください」
彼女の真摯なお願いに、ミーアの嗅覚が鋭く反応する。
――奨学金による恩……というのは、少し危険かもしれませんわ。
言ってしまえば、シャロークは、貧しいけれど能力のある者たちに、私財を投じて知恵を得させているのだ。
そして、知識とは武器である。鋭い武器を携えた者たちが、シャロークに恩を感じている状況、その状況で、彼を悪し様に言うことは、危険な敵を作りかねない行為であると……、ミーアは遅まきながらに察した。
特に目の前のタチアナという少女は医の道を志しているという。けれど、シュトリナの例を見てもわかる通り、薬とは使い方によっては毒にもなるもの。そのような者を敵に回してしまった場合……。
ミーアの脳裏に、自身が毒殺されるとの記述が甦る。
――てっきりリーナさんの仕業かと思っておりましたけれど、ほかの者のしでかすことということも、十分に考えられますわ。
ここにきてミーアは、ようやく悟る。自らの慢心を……。
――完全に油断しておりましたわ。わたくしは、いついかなる時でも気を引き締めていなければいけませんのに。
昨年の夏前のことを、思わず思い出すミーアである。
運動をサボっていたばかりに、ちょっぴりだけなまっていた体。FNYっとして、水着が着づらいということがあった……。
……これは、あの時と同じだ。
――わたくしは、FNYっておりますわ……心が。慢心で、すっかりなまっておりましたわ……心が!
ということで、ミーアはしばしの熟考の後……、軌道修正に入る。
「ふーむ、それについては、シャロークさん次第ですわね……」
まず……、あくまでも責任は相手にあるのだとアピールする。
それは、嘘ではなかった。そもそもミーアとしては、シャロークと事を構えることは望まない。まぁ、今回つかんだネタでネチネチやったら面白いかもしれない、とちょっぴり悪戯心は芽生えたりするが、ミーアはそれに固執しない。
今は、大飢饉の前の大切な時期なのだ。大人しくしていてくれるならば、構っている余裕はないのだ。
けれど、同時に、あの男がそう簡単には引かないだろうな、とも思っていた。
シャロークがフォークロード商会に、今後も介入を続けるのであれば、フォークロードを支援するという形で、抗争は続くだろう。
――ダラダラ続けるのはあまり得策ではない気もしますわね。あるいは、どうにかしてサクッと心を折ってしまえれば、解決するかもしれませんけれど……、あ、そうですわ!
と、そこでミーア、タチアナの顔を見て閃く。
「ふむ、そうですわね。あるいは、あなたが協力してくれれば、無用な争いは避けられるかもしれませんわ」
「え……? 私の、ですか?」
「ええ、そうですわ」
頷きつつ、ミーアは自らの思い付きに悪い笑みを浮かべる。
――今回のネタで叩くとして、もしもとぼけられた時に、この方を連れて行けば、効果的に、えぐれますわ! 現にこうして、あなたの奨学金に救われた方が、わたくしのお友だちにおりますわよ? 優しい優しいコーンローグさん、などと……、うふふ、笑い飛ばして精神的に追い詰めてやればいいんですわ。
シャロークが感傷という弱さで作り出した奨学金制度、その制度を使ってセントノエルに通う実例が今目の前にいるのだ。これを使わない手はない。
さらに、それはタチアナに責任の分散を図る妙手でもあった。
もしも、シャロークとの抗争が激しさを増した場合、ミーアが恨まれないように、と。あなたの責任でもあるんですよー、と。そう言えるための策略である。
――ふふふ、これだけ状況を整えてしまえば、シャロークさんにしても、これ以上の辱めを受けるより早めに矛を収めたほうが、最終的な傷は浅くて済むと気付くはずですわ。
戦において被害が広がるのは、戦力差が拮抗している場合だ。
初めから、圧倒的な戦力に差があれば、交渉次第では一度も剣を交えずに軍を撤退させることも可能。大帝国の姫らしく、開戦初期の大兵力の投入という戦術体制を整える。
名将ミーアの戦術眼が冴え渡る。
――ただでさえ飢饉で忙しくなるわけですし、長引かせず、一気に叩き潰すのが得策! まぁ、もうちょっかい出してこないかもしれませんけれど、備えておくに越したことはありませんわ。
そうして、準備しておいたミーアの切り札……、タチアナに協力してもらう機会は、思いのほか早く訪れた。
ペルージャンの王女、ラーニャから急報が入ったのだ。