第二十九話 幸せな妄想
ミーアは汚れを落とすために、いったん寮へと戻ることにする。
「では、また後で……」
などと、アベルと約束をし、厩舎を出た瞬間……、ミーアは走り出す。
はじめは小走りに、百歩ほど行ったところで全力疾走に切り替える。
びゅんっと風のように駆け抜けて、向かう先は共同浴場だ。
アンヌが替えの服を持ってきている間に、素早く、服を脱ぎ捨て、浴場へ。
備え付けられている石鹸をワッシャワシャと泡立てていると、遅れてアンヌが合流。携えてきたミーア愛用の馬シャンを使い、スピーディーかつ丁寧にミーアの髪を洗い始める。
そうしてテキパキと身支度を整えて、ミーアは馬場に向かった。
疾風のごとく駆け抜けたミーアは、目的地の手前で急ブレーキ。それから、呼吸を整えるようにゆーっくりと歩いていき……、
「ご機嫌よう、アベル」
「やあ、ミーア。早かったね」
馬場の柵に腰かけていたアベルは、ミーアのことを見つけると、さっと道に降りた。
シュッと引き締まった体を覆うのは、真新しいシャツと黒いズボンという……、ちょっぴりラフな格好だった。
――ふむ……王子さまっぽくない格好もなかなか……。良いですわね……!
このギャップがいいのである!
髪を洗ったのだろうか、サラサラの黒髪が風にそよいでいた。ふわり、と鼻をくすぐる清潔な石鹸の香りに、ミーアはほわぁっと息を吐いた。
――やっぱり、アベル、格好いいですわ……。
「ん? ミーア、どうかしたのかい?」
ミーアの視線に気付いたのか、アベルがきょとんとした顔をする。
「あ、いえ、別に何でもありませんわ。それより、ほら、馬場のほうに行きましょう」
馬場では、すでにベルとシュトリナが馬龍に教えを受けていた。
「ふわぁ、馬って背が高いんですね。落ち着いて乗るとよくわかります」
「ははは、そうだぞ。この高さで草原を走ると気持ちいいんだ。もし騎馬王国に来ることがあったら、一緒に遠乗りに行くか?」
「はい、ボク行ってみたいです!」
などと、ベルが楽しそうにしているのが見えた。
「今日はあの二人も一緒なのだね」
「ええ。実は、わたくし自身が乗馬を楽しみたかったというのももちろんあるのですけど、それ以上にベルに乗馬を教えてあげようと思って……」
「そうか。ベルくんに、馬術を……」
腕組みするアベル。その視線の先では、馬龍に引かれて馬が歩き出していた。よろよろと、微妙に危ないバランスながらも、懸命に馬にしがみつくベル。そんな姿が、なんだかかつての自分を見るようで、ミーアはちょっぴり微笑ましく感じてしまう。
「なかなか、筋が良さそうだね」
「ええ、そうなんですの。先日の聖夜祭の時には、なかなか騎乗姿も様になっておりましたし、案外、簡単に乗りこなしてしまうのではないかと思いまして」
ベルに温かな目を向けるアベル。その隣で、見守るミーアの視線も、どこか優しかった。
「馬に乗れれば、いろいろとできて便利ですし……。ああ、もちろん、あのようなことに、もう二度と巻き込むつもりはございませんけれど……」
それでも……、気を付けていても危機に巻き込んでしまうことは、この先もきっとあるだろうと思う。そんな時には、きっと乗馬の技術が役に立つはず……、などと、柄にもなく真面目なことを考えていたミーアであったが、ふと、自らの状況を見て思う。
あっ、こういうのちょっといいかも……と。
好きな人と並んで、自分の孫娘が馬に乗る姿を見る……。落ちそうになるのをハラハラしながら見守りつつ、応援する。それは些細で、とてもありふれた……、でも、幸せな風景。
こんな風に幸せな未来を想像したことは、なかったかもしれない。
――思えば……、今まで悲惨な未来から逃れ続けることだけに必死になっておりましたけれど……。もしも、アベルと結婚したら、わたくしは……。
どうなるのだろうか? ふと思う。
この、隣に立っている柔らかな、温かな雰囲気を持つ少年と……、もしも、結婚したら、どうなるのか……。
ほわほわほわん、と無限に妄想が広がっていく。
こんな風に穏やかな天気の日に、子どもを連れて遠乗りに行き、そこで、馬型のキノコサンドイッチをみんなで食べて、それで……。
「ん? どうかしたのかい?」
不思議そうに首を傾げるアベル。優しげな笑みを浮かべるアベルに、ミーアは、ほわぁ、っと息を漏らす。
「あ、え、えーと、なんでもありませんわ。うふふ、そ、それより、わたくしたちも馬に……」
と、馬場のほうに目を向けたミーア。すると、ちょうどタイミングよくベルが馬から降りたところだった。よほど楽しかったのか、ぶんぶん手を振りながら、こちらに走ってくる。
――うふふ、はしゃいでおりますわね、ベル。楽しんでいるようで良かったですわ……。
などと、和やかな気持ちで眺めていたのだが……、その目の前で、バランスを崩したベルが思いっきり転んだ。
「ベルっ! ああ、もう、調子に乗るから」
慌てて、ミーアは駆け出した。
走り寄ると、ちょうど、シュトリナに助け起こされたベルが立ち上がるところだった。
「ちょっと、ベル? 大丈夫ですの?」
「はい、大丈夫です。えへへ、失敗しちゃいました」
ベルは困ったような顔で笑う。
「ふむ、まぁ、笑えるぐらいだったら大丈夫ですわね」
そう言いながら、視線を下げたミーアは……見てしまう。
ベルの幼い膝小僧、そこが、真っ赤な血に染まっていることを!
「べ、ベル……それ……」
その言葉が終わるのを待たず、小さな体がフラーっと倒れていく……。小さな……、ミーアの体が……。
「う、うーん……」
「ミーアっ!」
慌てたようなアベルの声を聴きながら、ミーアは意識を失った。
……血を見たショックで気絶してしまうミーアなのであった……。
ミーアは痛いのも、痛そうなのも嫌いなのだ。