第二十八話 おひさしぶり!
――うふふ、さすがはアンヌ。良い着眼点を与えてくださいましたわね……。
シュトリナを誘い、厩舎に向かう途中で、ミーアは満足げに微笑んだ。
――なにか趣味を持たせれば、ベルだって、いついなくなってもいいなんて思わなくなるはずですわ……。楽しいことがあれば、死んでたまるかと思ってくれるはず……。これがなにかのきっかけになればよろしいんですけど……。
ベルの無駄遣いがどこに起因しているのか、だいたい察しているミーアとしては、この問題が簡単に解決しないことはわかっているが……、それでもなにもしないわけにもいかない。
そんなミーアにとって「ベルになにか趣味を持たせる」というのは良い着眼点のように思われた。
――ゆくゆくは、キノコ狩りのような雅な趣味も身に付けさせたいですけれど、そちらは、わたくしも勉強中ですし。とりあえずは乗馬ですわね。馬も可愛いし、きっとベルも気に入ってくれますわ。
などと思いつつ、ミーアは、視線を転じる。
「ところで、リーナさんは馬に乗れるんですの?」
ベルの隣で、にこにこと可憐な笑みを浮かべていたシュトリナは、ミーアの問いかけに、きょとりん、と首を傾げた。
お人形さんのように愛らしい顔を見ていると、ついつい忘れがちになってしまいそうだが、シュトリナは、元「混沌の蛇」の関係者だ。陰謀に与するには、馬に乗れたほうが色々と都合がいいはず、もしかしたら乗れるのでは……? と思ったミーアなのだが。
「いえ、リーナもはじめてです。だから楽しみで……。ふふふ、ベルちゃんと一緒に乗馬、とっても楽しみです」
「ふむ……」
ミーアは、腕組みしつつ考えこむ。
――二人が素人となると、わたくし一人で教えるのは難しいかしら……? いくら、わたくしが馬術の名人とはいえ……。
背浮き乗馬の開祖たるミーアは、きちんと分をわきまえているのだ。
そうこうしているうちに厩舎へとたどり着く。と、そこで、ミーアは懐かしい顔を見つけた。
「あら……、あなたは……」
「よぉ、ひさしぶりだな。嬢ちゃん」
厩舎の中、馬の手入れをしていたのは豪快な笑みを浮かべた林馬龍だった。
「ひさしぶりですわね、馬龍先輩。たしか、セントノエルは今年の春でご卒業されたのではなかったかしら?」
それ以降は騎馬王国に帰国したものとばかり思っていたのだが……。
「さては、馬たちが恋しくて戻ってきましたの?」
軽口を叩くミーアに、馬龍はニカッと笑みを返す。
「馬のほうは心配してないんだが、嬢ちゃんとアベルが上手くいってるか様子を見に来たのさ」
「あら? お気遣いに感謝いたしますわ。おかげさまで、アベルとは仲良くさせていただいておりますわよ?」
「ははは、それはなによりだ。まぁ、冗談はさておき、実はラフィーナの嬢ちゃんに頼まれてな。馬たちの様子を見に時々来ることにしてるんだ。馬術部のことも気になってたしな」
「まぁ、そういうことですのね。ふふ、それにしても相変わらずですわね。お元気そうでなによりですわ」
ひとしきり馬龍と会話してから、ミーアは厩舎の中を見た。
「花陽も、元気にしてましたかしら? なかなか来られなくって申し訳なかったですわね」
冬に世話になって以来、ゆっくり乗馬に勤しむことができていなかったミーアである。一瞬、忘れられてしまったかな? などと思いはしたが、花陽は、ミーアを見つめると、挨拶するようにぶーふっと鼻を鳴らした。
「うふふ、ええ、ずいぶんとひさしぶりになってしまいましたわね。それに、あなたのほうも、ひさしぶりですわね! えーっと……」
ミーアは、花陽の隣にいる仔馬に声をかけた。ミーアの声に、耳をひくひく動かす仔馬。優しくも気品のある顔には、花陽の面影があった。
「ああ、そいつの名前は銀月だ」
馬龍が後ろから教えてくれる。
「ほう、銀月……銀月……、シルバームーン! おお、とても良い名前ですわね!」
なんだか、生涯に一頭の愛馬を見つけてしまったような気持ちになるミーアである。もう少し大きくなったら絶対に乗ってやろう! と心に決める。
「うわぁ、すごい。もう、こんなにおっきくなったんですね」
「ほんと。あの時はすごくちっちゃかったのに……」
ベルとシュトリナが仔馬、銀月を見て歓声を上げる。銀月は二人のことを覚えていたのか、のっそり近づいてきて、鼻をひくひくさせている。
馬とじゃれる孫娘とその友だちの姿を微笑ましく眺めていたミーアであったが……、はて……? と首を傾げた。
「それはそうと、荒嵐はいないんですのね? もしかして、どなたかが遠乗りに行っておりますの?」
いつもミーアに不遜な視線を向けてくる、あの荒馬の姿がどこにもなかった。
もともと荒嵐のことが苦手だったミーアではあるのだが、あの夜、共に死線を潜り抜けたことで、親しみを覚えていた。
あのふてぶてしいまでに不遜な態度が、今ではどこか心強い。戦友といっても良いほどには、信頼を寄せているのだ。
「ああ、今はアベルが乗っててな。っと、ちょうど帰ってきたみたいだぜ」
その言葉に、ミーアは後ろを振り返る。と……、
「やあ、ミーア。乗馬に来たのかい?」
爽やかな笑みを浮かべたアベルが、荒嵐の手綱を引いて近づいてくるところだった。
「ええ、そうなんですの。気持ち良く晴れた午後でしたので……って、それにしましても……」
ミーアは、アベルの姿を見て、小さく首を傾げた。
「ずいぶんと、泥んこですわね……」
よく見ると、アベルの頬には泥がついていた。凛々しい乗馬服にもところどころに泥はねが見て取れた。
ミーアの視線を受けて、アベルは、困ったような顔で笑みを浮かべた。
「暴れ馬の洗礼を受けてしまったよ」
「まぁ、そうなんですのね。でも、別に遠乗りをするのであれば、荒嵐でなくても良いのではなくって……?」
荒嵐は乗るのが難しい気性の荒い馬だ。わざわざ乗りづらい馬を選ばずとも、花陽やほかの乗りやすい馬に乗れば良いのではないか……、と思ったミーアである。
「荒嵐は乗りこなすのが難しい馬ですし、上手く乗れなくっても気落ちする必要はありませんわ」
「でも、君があんなに乗りこなせていたのに、ボクが乗れないのは格好悪いじゃないか……」
アベルは、ちょっとだけムキになった顔で言った。
「ボクだって乗りこなしてみせるよ。今はまだ難しいけれど、これから訓練して、必ず、こいつを乗りこなしてみせる」
そんなアベルを見たミーアは、思わず……、
――まぁ! 男の子の意地ってやつですわね。うふふ、可愛いですわ。
ニヤつきそうになる口元を押さえる。
最近では、すっかりたくましく、凛々しくなってきたアベル、そんな彼が見せた、「年下の男子の、ちょっぴり背伸びした感」に、ミーアは思わずクラッとする。
――こういう負けん気の強いところもいいんですのよね、アベルは……ん?
と、ミーアはそこで、ふと気付く。微妙な違和感。
――はて? わたくし、なにか、忘れているような……。
なにか、忘れてはいけない、なにかがあったような……、なんだか、何かが足りないような、そんな感覚。
その瞬間だった! ふしゅーっと首筋に、なにやら風を感じて……。
「あ……あら? これは……、なにやら、懐かしい感触ですわね……。なんだったかし……ら?」
振り返ったミーアは、そこで見つけた! 鼻をむぐむぐさせている、荒嵐の姿をっ!
「あ、ああ、これ、荒嵐、あなたとも、ずいぶんと、ひさしぶ……うひゃあああああっ!」
ミーアの、ちょっぴり間の抜けた悲鳴をかき消すように、ぶえぇえくしょんっ! という荒嵐の盛大なくしゃみの音が響いた。
ひさしぶりだったからだろうか……、それは、いつもより大きいくしゃみだった……。